第84話 美宙の笑顔
園宮家のリビングでお茶を飲んでいると、愛花が戻って来た。
「
ぼくが聞くと愛花は頷いた。
「ごめんなさい、大輔さん」
愛花は申し訳なさそうな顔でぼくの向かいに座った。
「アンビに預けるようになって、他の家の子供たちには、お母さんだけじゃくお父さんという存在がいることに気付いてしまったようなのよ。――― 今日、信ちゃんのお誕生会に招かれて、界人さんをお父さんと呼ぶ信ちゃんを見て、なんか感じちゃったみたい」
「そうだな……。美宙はかしこい分、感受性が強いから、いろいろと考えてしまうんだろうな」
――― ミソラのおとうさんになって ―――
思い詰めた美宙の眼差しを思い出し、ため息が出そうだった。
二歳にも満たない幼児に辛い思いをさせている事が、とても遣り切れなかった。
解決方法はある。
それはいたって簡単だ。
ぼくと愛花が結婚すればいいだけの話だ。
美宙の願いはそれで解決できる。
ぼくはきっと今、愛花の事をどの女性よりも大切に思っているし、三人で過ごす時間は、他では得られない掛け替えのないものだった。
この二人とこれからの人生を歩むのは、決して悪くない。
時々そう思う。
だからこそ、よけい一緒にはなれないのだ。
ぼくの心の奥底には彩香がいた。
美宙を愛おしく思う気持ちは素直に受け止められる。
(だけど……)
愛花に女性としての愛情を感じたり、ともに暮らす未来を考えたりすると、ぼくの胸は苦しくなってしまうのだ。
ぼくは不器用でヘタレな男だ。
そのぼくが、愛花に想いを寄せるという事は、その分だけ彩香への想いを忘れてしまう気がした。
ぼくを想い、自分を犠牲にして、最期まで愛してくれた彩香を、絶対に忘れちゃいけないんだ。
(忘れたら……彩香が可哀そうだ……)
その思いがぼくを呪縛しているのは分かっている。
だが、愛花への想いが強くなるにつれ、彩香に対する後ろめたい気持ちが、反作用のように沸き上がって来るのだ。
今の愛花は、出会った高校生の頃よりも、ずっときれいだ。
『子供がいるから同年代の
愛花はそう言って笑うが、それは間違っている。
目標も持たずにダラダラ生きている若者よりも、家の事、美宙の事、そして自分自身の事、それらを精一杯こなして生きている愛花の方が、はるかに生き生きとして、若々しいと感じていた。
ダラダラ生きている若者 ――― それは……。
(まさにぼくのことだな)
ぼくは自嘲の笑みを浮かべた。
「大輔さん?」
向かいに
憂いた顔の愛花は、ドキッとするくらいきれいだった。
「ごめん。思い出し笑いだ」
そう言って誤魔化した。
愛花は納得していない様子だったが、それ以上は触れて来なかった。
翌日、職場に入ると、近江誠也と榊原
新人研修が終わると、アリサは総務部総務課に配属された。
同じ事故で弟を亡くした者同士である。
親近感を持つ二人は一緒にいる事が多かった。
邪魔したくないのでスルーしようとしたら、近江たちの方から近づいて来た。
「日曜日、春木たちを見かけたよ」
と近江が言った。日曜日とは昨日だ。
「榊原
「どこで見かけたんだい? 声を掛けてくれればよかったのに」
ぼくが聞くと、アリサがニコリとした。
「近江さんと食事していたんです。ビストロ ペッシュで」
「ああ。そう言うことか」
ビストロ ペッシュに来たのは偶然だろう。
そして二人は休日に食事を共にする間柄になっていたようだ。
「ビストロ ペッシュは愛花のお母さんが経営する店なんだ」
「そうだったんですね」
「昨日はおれの友人の子供の二歳の誕生日を祝っていてね。友人の奥さんとは、以前同じスーパーで働いていたから、そのつながりで今も仲良くさせてもらっているんだよ」
「駅前のスーバ―でしたね、確か」
「ああ、そうか。アリサちゃんはおれがあのスーパーでバイトしているの知っていたもんな」
「はい。男の子のお母さん、なんとなく見たことある人だなって、思っていたんですよ」
「あのさ……」
と近江が小さな声で言った。
「春木と榊原さんって、家庭教師の繋がりなんだよな」
探るような感じで聞いて来た。
はっきりものを言う近江らしくなかった。
まあ、最近の近江は、他人とのポータブルスペースの取り方を考えるようにはなっていたが……。
「どうしたんだよ、近江らしくないな」
「いや、ちょっとね……」
近江ははっきりした態度を取らない。
どうやらアリサとぼくの間に親密な関係があったのか気になっているようだ。
少し気まずい空気が流れた。
それを
「春木がしていたアルバイトって、このビルの二階から上にあるアンビシャスのことだよな?」
と近江は急にトーンを上げて尋ねた。
「ああ、そうだよ」
とぼくが答えると、その後をアリサが引き継いだ。
「それにしてもアンビシャスは大きくなりましたね。わたしが生徒の時は1LDKのアパート二部屋で営業していたのに」
「確かに、そうだったな。ちなみにあの時のアパートの一室は、現在おれの住居になっているんだよ」
「え――。そうなんですね」
アリサは驚いた顔をした後、
「話が変わるのですが」
と顔を引き締めた。
「少し先のことになるんですが、来年の美宙ちゃんの誕生日パーティ ――― 家でやらせてもらえないでしょうか?」
突然そんな話をした。
「唐突な話だね。でもそれは、おれには決められないよ」
とぼくは答えた。
「愛花が決めることだ。彼女がいいって言うんなら、それでいいと思うよ」
榊原家とは、表向き和解が成立していたが、それでも榊原さんと愛花の間には、小さくない壁が存在していた。
ヒロシの三回忌の後、
八月の盆供養と九月の彼岸。
いずれもヒロシの法事だ。
そういった口実 ―――
榊原夫婦はおそらく、
「美宙の大好物があるから、おじいちゃんの家に来ないか?」
そんな、どこにでもいる普通の祖父母の関係を、築きたいに違いない。
しかし、悲しみの淵に沈んでいる時に、感情のおもむくまま、怒りの矛先を理不尽にも愛花にぶつけてしまった事実は、今更なかった事には出来なかった。
その時つけられた愛花の心の傷は、簡単に癒えるものではないのだ。
榊原夫婦もそれは理解しているから、理由もなく美宙と会う事が出来ないジレンマに
榊原夫婦はヒロシの大切な両親だ。
それは愛花も分かっている。
だから、負の感情は見せずに、榊原夫婦に対して明るくつとめているが、もう一歩踏み込んだ付き合いが出来るかという、それは難しい問題だった。
と、室内スピーカーからビバルディの四季が流れた。
始業の合図だ。
「愛花には伝えておくよ」
それだけ言ってぼくは席に着いた。
仕事が終わると、ぼくはアンビシャスのビルに向かった。
アンビシャスに用事はない。
今日の愛花は高校受験コースの講義に就いていた。
託児所・アンビにいる美宙の様子を覗きに来たのだ。
――― ミソラのおとうさんになって ―――
昨日の寂しそうな美宙の事が心に引っ掛かって仕方なかったのだ。
アンビに入ると、真っ先に目が合ったのは信一郎だった。
「ミソラちゃん」
信一郎は美宙の背中をポンポンと叩いた。
「なぁに、シンちゃん……! あっ」
振り返りざまにぼくを見止めた美宙は、喜色を
「わ―――い。ダイスケさんだぁ。こんばんはぁ」
と満面の笑みでぼくにダイブしてきた。
「おいおい、飛び付いて来ちゃ、危ないぞ」
「ごめんなさ~い」
と言いながらも全然反省していなかった。
そのいつもと変わらない笑顔にぼくはホッとした。
(いつも通りの笑顔だ……。よかった……)
顔が見られたら帰るつもりだったが、美宙が離してくれそうもなかった。
時計を見る。十九時五十分だった。
愛花の講義が終わるのは九時だった。
(まあ、いいか)
「お母さんが仕事終わるまで、シンちゃんと一緒に遊ぼうか」
「やったぁー!」
美宙は一番のジャンプを見せると、信一郎の手を取り、奇妙なダンスを踊り出した。
「よっ、おまえも来ていたのか」
背後から声を掛けられ、振り返ると界人がいた。
「おお、界人。仕事は大丈夫なのか?」
「まあな。今日は琴美が最終まで仕事なんで、おれが迎えに来ることにしたんだよ。ところでおまえは、なんで来たんだ?」
「いや、なんとなく、美宙のことが気になってね」
「ああ、昨日のことだろ? おれと信一郎が話している様子を、美宙ちゃんは、寂しそうに見ていたもんな。大輔のことだから気になっているだろうな、とは感じていたけど」
そう言ってから界人は、奇妙なダンスを踊っている美宙と信一郎に向けた。
そして界人も安心したように笑った。
「子供だって思いつめることはあるけど、いつまでもそれに執着しないものだ。子供の心は猫のように気まぐれなのさ。美宙ちゃんはだいじょうぶだよ。お父さんがいなくても、美宙ちゃんはたくさんの人から愛されて育っているんだから。むしろ問題なのはおまえたち―――」
と界人は言いかけて言葉を切った。
「まあ、今はいいか」
そう言うと界人は、信一郎を手招きした。
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