第76話 忘れられないもの





 一月から三月にかけては受験シーズンなので、大学の講義は基本的に少なかった。

 とはいえ、必須科目を多く選択する一年生は、二年・三年に比べて、受講時間は多い。

 

 愛花の出産は予定より十日も早い一月五日だったが、愛花にとっては却っていい事だった。

 大学の冬休み明けが、一月二十日なので、愛花が産後の休養を取るには十分な時間だった。初日から講義に出席する事が出来た。


 大学の講義がない時は愛花が美宙みそらの面倒を見るが、桃子さんが非番の時は彼女が世話をしてくれる。どちらも都合がつかない時は、専業主婦の琴美が預かってくれていた。


「わたしだったらおっぱいも上げられるから、美宙ちゃんを預かるにはちょうどよかったのよ。時代劇に出て来る乳母めのとになった気分で、なんか楽しいわ」


 琴美と愛花の双方の腕には、それぞれ信一郎と美宙が眠っていた。

 二人とも我が子の寝顔を見ながらうっとりしている。


「琴美さんには、お世話になりっぱなしで、ごめんなさいね」

「なに言ってるのよ。愛花ちゃんだってそうじゃないの。信一郎が産まれた時、ずっとわたしの家に通い詰めてくれてたでしょ? 本当に助かったわ。今度はわたしを頼ってね。わたし、いまだに料理も片付けも下手でどうしようもないけど、おっぱいとオムツくらいなら出来るわよ。新生児は動き回らないからまだ楽だよ。アハハハハ。歩き出したら笑ってられないかも知れないけどね。アハハハハ」

「琴美さんったら、もう。ウフフフ」

 愛花もやっと笑顔を見せた。

 相良のほがらかさは、ナーバスな性格の愛花にとっては有難ありがたかった。


「界人、いつもすまないな。休日だと言うのに」

 ぼくと界人は隣りの部屋で、昼間っからビールを開けていた。

「ん? なに言ってんの。おれ、こういうの好きだよ。――― 友人家族と休日は何気ない時間を過ごす ――― おれが叶えたかった小さな幸せってヤツかな」

「あのさ、おれと愛花は家族じゃないよ」

 とぼくが苦笑すると、界人は真面目な顔を向けた。


「それじゃ大輔、愛花ちゃんとはこれから先、どう考えているんだ?」

 界人にしては珍しくな質問だった。

 一瞬言葉が出なかった。

「な、なに言ってんだよ。飲み過ぎたのか?」

「まじめな話だよ」

 と界人は言った。

「大輔とは十年以上の付き合いがあるから、おれには分かるんだよ、おまえの気持ち。愛花ちゃんへの想いは今のところ、生粋きっすいなものなんだろうけど、いつまでもそのままでいつづけられると思っているのか?」

「おいおい、界人。今日はみようにからむじゃないか」

 ぼくはお道化た口調で言ったが、界人は至極しごく真面目だった。

「橘さんだって、すごくすごくいい人なんだ。あれくらいいい人とこれから先出会える可能性は限りなく低いと思うよ。なのに、大輔は橘さんを振った」

「いや、おれは振ったとかそんなんじゃ……」

 とぼくが口ごもると、界人はようやく口をほころばせた。

「ちょっとストレートすぎたな。悪い。でも、彼女と恋人になるのに、ためらいがあったのは事実だろ?」

「ああ……」

「今も、立花への想いが消えないでいるからだろ?」


 ぼくは答えなかった。

 そんなぼくを見て界人は缶ビールの残りをグィッと飲んだ。

「もうよそうか、この話。おまえがどんな思いでいるか知りながら、理詰りづめすると言うのは、嫌な気分だからな。仕事のくせが出てしまったよ。すまん」

「いや、いいよ。ただな………正直な所おれはなんも考えてないんだよ。目の前にある物や目の前で起こるものに、ただ心のまま動いている ――― 何かに一生懸命でないと、落ち着かないって言うか……うまく言えないけど、そんな感じかな」

 でもな、とぼくは言葉を続けた。

「恋愛が絡むと、どうしても逃げ腰になるんだ。恋するのが怖いとか女を信用できないとか、そんなんじゃないんだ。おれはただ、彩香以外の女性との未来なんて……考えられないし、考えたくないんだ。彩香が可哀そうで……申しわけなく……どうしようもないんだよ……」

 不覚にも、大粒の涙を、二つ・三つ膝の上に落としていた。

(ああ、おれ、酔っているんだ……)


「彩香以外の誰かに恋をし、付き合うことを想像したら……彩香を愛した思いが……すべて嘘になってしまう気がするんだ。彩香のことは忘れたくないし、この想いは……おれにとって……」

「もういい」

 と界人がぼくの肩を軽く叩いた。

「それ以上話さなくてもいいよ。おまえの気持ち知っているから。大輔、苦しめてすまなかった」

「いや、いいよ。やっばりおれ、今も現実から逃げているんだろうな」

 ぼくは目尻めじりぬぐった。

 その時、ふと、こっちを向いている愛花と目が合った。

 話を聞かれていたようだ。

 どう感じたのか知らないが、愛花は悲しそうな目をぼくに向けていた。




 四月に入り、受験シーズンに一区切りがついた頃、峰山さんから料亭に誘われた。

 メンバーはぼくと愛花。そして美宙は愛花の腕の中で寝息を立てていた。

「あら、美宙ちゃん可愛い。おネムしてるのね」

 橘もいた。

 退職した後も橘とは頻繁にメッセージは交わしていたが、こうして会うのは、愛花が出産したとき以来だった。

 橘は現在、受け持ちの受験生の講義以外にも、開校したばかりのアンビシャス二号店の運営に関わっていて、とても多忙だった。


「橘さんのお陰で、全員志望校に合格したよ。ありがとうね。だから今日はそのお礼だよ」

 ニコニコしながら峰山さんは言った。

「愛花はともかく、ぼくは何にもしてませんよ」

 とぼくが言うと、橘が言った。

「わたしね、アンビシャスに就職することにしたの」

「そうなんだよ」

 と橘の言葉を峰山さんが引き継いだ。

「まじめで優秀な人を紹介してくれた春木君にも感謝しているんだよ」

(相変わらず、人がいいな)

 峰山さんらしいと思った。


「橘は、本当にいいのか?」

 アンビシャスでいいのか、と言い掛けて止めた。

 失礼な言い方になると思った。

 大阪大学卒業の橘なら引く手数多あまただから、勿体もったいないという思いが頭をよぎったのだ。


「わたしね、生徒さんを教える仕事にとてもやりがいを感じているの。それにね、峰山社長が起業した理由にも、とても共感したのよ」

「えっ? 峰山さんがそれ話したの?」

 ぼくが聞くと、苦笑いを浮かべる峰山さんの隣りで、橘はかぶりを振った。

「スターティングメンバーの人から聞いたの。峰山社長は、春木君とは正反対の陽キャだけど、自分の話はほとんどしないわ。そこのところは春木君と同じよね」

「ぼくは陽キャなのかい?」

 と峰山さん。

「ええ。まぎれもない陽キャですよ、社長」

「橘さん、その社長はよしてくれよ。峰山でいいよ、峰山で」

 峰山さんは笑いながらそう言った。

「分かりました。それじゃ、峰山社長」

「あぁ、ちっともわかってないじゃないか。橘さんにはまいったな」

 そう言って頭をく峰山さんに、橘はいたずらな笑みを向けた。


(なんか、変わったな、橘)

 ぼくがそう思っていると、隣にすわる愛花が、テーブルに隠れるぼくの太腿ふとももを、指で二度小突こづいた。

 目を合わすと、愛花は意味深な笑みを浮かべ、橘と峰山さんの方に視線を向け、そして微笑ほほえんだ。


《橘さんと峰山さん、いい感じですね》


 こういった事にうといぼくでも、愛花のアイコンタクトは手に取るように理解できた。

 ぼくが頷いて見せると、愛花はぼくにだけ聞こえる小さな声で、

「残念ですね」

 と笑った。

 ぼくも笑いながら軽く頷き、もう一度橘を見た。

 峰山さんの隣りで、橘は幸せそうに笑っていた。

 その様子を見ているうちにぼくも嬉しくなってきた。

(これでぼくと橘は本当に友達になれる)

 肩の荷が下りる ――― まさにそんな気分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る