第77話 むくわれない愛 前編
料亭を出たのは午後八時だった。
帰り道は、ぼくが
「ずっと眠っているわ。気を使って静かにしてくれているのかな?」
「ただ、眠いだけだろ? 赤ちゃんは寝て育つと言うからな」
「そうですね」
愛花は我が子の頬を指でなぞった。
園宮家を出てから今まで、美宙は一度も目を覚まさなかった。
そして、ようやく園宮家に戻り、引き戸を開いた時に出るガラガラという音に反応したのか、美宙はパチッと目を開けた。
(やばい。泣くのか?)
ぼくは慌てて美宙に変顔をして見せた。
「あばばばば。バブーバブーバブー」
美宙はつぶらな瞳をぼくに向けると、満面の笑みで、コロコロと笑い出した。
「良かったぁ。泣くかと思ったよ」
そう言って愛花を見ると、彼女は身をのけ反らせながら、思いっきり笑いを
「な、なんだよ」
「だってぇ……めちゃくちゃ面白い顔だったんだもん……もうダメ……あははははは」
「チェ、なんか腹立つなぁ」
「ご、ごめんなさ~い」
愛花は涙を浮かべながらも、まだ笑っていた。
「お帰りなさい。あら、春木さんも一緒なんですね。いらっしゃい」
と桃子さんが出迎えた。
「桃子さん、こんばんは」
「お母さん、今日は早かったのね」
「今帰ったばかりよ。あら、ミーちゃんおめめパッチリね。可愛いわね。さあ、早くミーちゃんを抱かせて」
桃子さんは目をキラキラさせてぼくから美宙を取り上げると、そそくさと奥に引っ込んだ。
「もお、お母さんったら、美宙のことしか見てないんだから」
と愛花はフゥと頬を
「あははは。それだけ美宙に夢中なんだよ。桃子さんの違う一面が見られて良かったよ」
「確かにそうですね。お母さん、最近ね、美宙を連れ歩いて楽しんでいるんですよ」
「かわいい孫だもんね」
「それもあるけど、それが違うんです」
「どういうこと?」
愛花は笑いそうな顔になった。
「美宙を抱いてお出かけして、『お子さん可愛いですね』とか『お母さんに似て美人になるわ』とか言われることに快感を覚えたみたいなんです。昨日なんかも『孫だって言っても誰も信じてくれなかったの』なんて嬉しそうに話すんですよ。おかしいでしょ?」
「いやいや、桃子さんメチャクチャ可愛いよ、それ」
「もお。大輔さんはお母さんに甘すぎるわ。なんか悔しい」
「あははは。そんな愛花も可愛いよ」
「じゃあ、許してあげます」
ぼくと愛花は互いを見合って笑った。
少しずつだが、こうして笑えるようになっていた。
ヒロシを
彩香を亡くして二年目になろうとしている。そのぼくが内に
「大輔さん。上がっていきません?」
「そうだね。少しお邪魔しようかな」
今年に入ってから ――― いや、美宙が産まれてからと言うべきだろう ――― ぼくは愛花の家に上がる事が多くなっていた。
玄関口からすぐの所にキッチンがある。
キッチンと呼ぶよりも台所と言った方がしっくりくる、昭和の
幼い頃に住んでいた家を思い出すからだろう。
使い込んだテーブルに着くと、愛花は暖かいコーヒーを
「ありがとう」
愛花もコーヒーを手にして対面に座った。
「大輔さん、どう思いました?」
愛花は興味津々と言った顔でぼくを見つめた。
「なにが?」
「橘さんのことですよ。なんとなく峰山さんといい感じだったと思いません?」
「ああ、そうだな。橘のあんな幸せそうな顔、初めて見たよ」
「大輔さんは、それでいいのかな?」
と愛花は意味深に上目遣いにぼくを見た。
ぼくは苦笑した。
「いいもなにも、橘とはいい友達でいたいんだよ。琴美のようにね」
「そんな感じですね」
と言った後で、愛花は少し考えてから、
「大輔さん、ひとつ尋ねていいですか?」
と遠慮気味にそう言った。
「昨日、三ヶ月検診に言って来た時、わたしつい、聞いてしまったんです。
「えらくストレートだな」
「そうなんです。思っていることが口をついて出たので、自分でもびっくりしました」
「それで、粟飯原さんはなんて?」
「粟飯原先生もびっくりしていました」
「そりゃ驚くだろ? いきなりそんな質問されたら」
「そうじゃないんです」
と愛花は言った。
「粟飯原先生は、わたしが大輔さんからなにも聞かされてないことに驚いたみたいなんです。粟飯原先生言ってましたよ。『わたしたちの別れの現場には春木君がいたのよ』ですって」
「ああ、あの日のことか……」
ぼくは五年前のあの日を思い出していた。
アンビシャスでのアルバイトを初めて一年が経とうとしていた。
ようやく法人化を果した四月上旬だった。
その日、ぼくは用意するものがあって、いつもより一時間ばかり早くアンビシャスに来ていた。
当時のアンビシャスは、今のぼくの部屋と隣の久保川さんの二部屋を借りて運営していた。
その日ぼくが入ったのは、後にぼくが住む事になる部屋の方だ。
誰もいないと思い、声も掛けずに入ったのだが、
「わたしたち今日で別れましょ」
粟飯原さんの声が聞こえて、動きを止めた。
靴箱には男性用と女性用の靴がワンセットずつあった。
もう一人の男性は多分峰山さんだろう。
どうやら、キッチンにいるようだ。
玄関からだと、リビングと和室は、直線で見渡す事が出来るが、玄関から入って右の
ぼくは握りしめたままのドアノブを、音を立てないよう閉めた。
「恋人のままならそれでも良かった。でも、行く行く結婚する相手は、医者でなくちゃいけなのよ。だから、わたしに本気にならないでって言ったじゃないの」
「そうだったね。真奈美さんは県内に五つもある、
峰山さんの声だった。
落ち着いた彼の様子から、突然出た別れ話ではないようだ。
峰山さんは話しを続けた。
「それは分かっているつもりだった。でもぼくは……恋人だけの関係でも良いと、最初は思っていたけど……やはりぼくには、真奈美さんを手放したくない。これから先もずっと、死ぬまで一緒にいたい……」
ゴトンと、どちらかがイスかテーブルに当たった音がした。
「ぼくは高校時代からの憧れの粟飯原先輩を追いかけて、この国立大学に入学したんだよ。本当は真奈美さんと同じ医学部に進みたかったけど、ぼくの家にそんなお金はなかったし、医学部の学費をアルバイトで稼ぐのは、並大抵のことじゃないからね。仕方なく、学費の安い学部を受験して、真奈美さんの近くにいようと思ったんだよ」
「知っているわ。
だから、と粟飯原さんは言葉を続けた。
「わたしの夫となる人は、粟飯原記念病院の理事長であり、病院長でなくちゃいけないの。両親はとても寛容な人だけど、そこだけは譲ってくれなかったわ」
「譲ってくれなかったということは、ぼくのこと、話してくれたんだね」
「話したけど……許してもらえなかった……」
粟飯原さんは涙声だった。
感情をあまり見せない人だった。
それだけにぼくは驚き、それと同時に、粟飯原さんの峰山さんに対する思いが、ひしひしと伝わった。
「わたし今日でアンビシャスを引退するわ」
「真奈美さん……」
「ごめんね。でも理由があるのよ。この春から医学部五年目になるわたしは、実習が中心になり、今までのように空いた時間にバイトする ――― なんて感覚ではいられないのよ。医者になるための真剣勝負なの。わたしは両親の後を継いで、粟飯原記念病院を守らないといけないから……」
言葉が途切れ、鼻をすする音がした。
沈黙が続いた。
ぼくの位置からは見えなかったが、二人の行動は何となく想像がついた。
(このスキに外に出よう)
ぼくはゆっくりとドアノブに手を掛けたが、
すると―――。
「春木君……いたの?」
と粟飯原さんに気付かれてしまった。
続いて峰山さんが顔を覗かせた………。
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