第75話 新しい命





 橘が十二月二十日に退職した後、愛花も二十八日を以て産休に入り、事後を橘にたくした。

「本当に入試までわたしがあの子たちを受け持ってもいいの?」

 橘は愛花にそう尋ねたが、愛花は頷いて見せた。

「講師の入れ替わりが頻繁ひんぱんだと、あの子たちが受験に集中出来ないと思うんです。だから、年が明けたら最後まで橘さんにお願いしたいのです。それより、入試が終わるまでと言ったら三月半ばになっちゃいますけど、橘さんの方はご都合よろしかったのですか?」

「わたしの方は問題ないわ。後のことは何も考えないで退職しちゃったからね」

 そう言っ笑った後、橘は真顔になった。

「わたしのことよりも、園宮さんの方は大丈夫なの? 収入とかなくなると学費とか大丈夫なのかなって」


 アルバイトの塾を休むという事は、そのあいだは無収入になるという事だ。

 しかし愛花は笑っていた。

「峰山さんも気に掛けてくれて、その間もお給料を出すって言ってくれていたんですけどね、それは断りました。――― 実は結構な印税が入ったんですよ。ですからお金のことは心配しなくても大丈夫なんです」


 『君の未来』中編の印税は立花さんと愛花で折半せっぱんとなっていた。


 先日に立花家を訪れた時の話である。

「大半は愛花ちゃんが一人で書き上げた小説だから七対三よ。愛花ちゃんが七で、わたしたちは三で充分よ」

 彩香の母・京子さんがそう言ったが、

「ダメです。わたしは彩香さんから多くのことを教えてもらったんです。折半でも多過ぎるくらいです」

 愛花は頑として折半を譲らなかったのだ。

「分かったわ。愛花ちゃんの好意に甘えさせてもらうわ。そのかわり、後編を書いた時の印税はすべて愛花ちゃんがもらうこと。いいわね」

「えっ、でも、それでは」

「わたしたちだって、そこは譲れないところよ。でないと、中編の印税もわたしたち放棄するわよ」

 京子さんの話を隣りで聞いていた彩香の父・茂さんも、微笑みながら頷いて見せた。

 愛花は二人の好意に甘える事にした。


 立花さん夫婦との関係は良好だった。

 先日の榊原さん夫婦との事が頭をもたげた。

(こんな風に分かり合えないものだろうか)

 立花夫婦と過ごす時間は、ぼくにとっても愛花にとっても、穏やかなものだった。

 ぼくたちはともに、大切な人を亡くした者同士。傷をなめ合っているだけなのかもしれない。それでも、互いに手を取り合い協調しようという姿勢がなければ出来ない事だ。


 ヒロシをうしなった榊原さん夫婦の心中は察する所だが、ヒロシの死によってもたらされた遺産は、二億とも三億ともささやかれていた。

 あの夫婦はきっと、消化できない悲しみを、ヒロシが遺した大金にしがみ付く事で、癒されようとしているのだろう。

(平常時にはいい人だったに違いない)

 ヒロシの両親だ。悪くは思いたくなかった。



 年が明けた。

 一月十五日が愛花の出産予定日だ。

 その日は正月休みの最終日だったから、出産まであと十日と迫っていた。

 正月休み最終日、愛花がヒロシの墓参りに行きたいと言うので、付き添う事にした。

 今日は一月五日。

 ヒロシの月命日は明日の六日だ。

(榊原夫婦と顔を合わせたくないんだろうな)

 それでいいと思った。

 月命日にこだわって嫌な思いをする必要なんてないんだ。


 まずは彩香の墓前に手を合わせ、それからヒロシに挨拶した。

 ヒロシの墓はいつ来ても花が新鮮だった。

 榊原夫婦とアリサが常に手を合わせに来ているのがよく分かった。

(大切な息子だったんだな)

 そう思うと、先日の一件の溜飲が下がりそうだった。


 ヒロシの墓前で手を合わせる愛花の唇が動いていた。

(もう直ぐ生まれると、報告しているのだろうな)

 

 そう思っていたが、しゃがんでいる愛花の横顔が少しずつ辛そうな表情に変わった。

「愛花?」

「痛い……産まれそう……」

 愛花がぼくにしがみ付いて来た。

「愛花! わ、分かった! 今救急車を……! いや、タクシーの方が早いか! わ、どうしょう……」

 いきなりの事で、ぼくはパニクってしまった。


「大輔さん……落ち着いて……。市営病院に電話して……。病院の救急車が来てくれるから……」

 苦痛に耐えながらも、愛花の方が冷静だった。

「分かった」

 ぼくは愛花を抱き寄せながらスマホを取り出した。




 病院に緊急搬送されると、愛花はすぐに分娩室に入った。

「破水しているわ。もう直ぐ産まれるわ。 ――― 春木君は待合室に待機して、親族の方にご連絡して」

 粟飯原あいはらさんはそう言いながら、分娩室の中に入って行った。

 ぼくは粟飯原さんの指示通り園宮家に電話を入れた。

 電話に出たのは、弟の隆二だった。桃子さんは仕事だったので、その旨を伝えて欲しいと通話を終えた。


「春木さん、入ってください」

 分娩室のドアが開いて、姿を見せた看護師さんがぼくを呼んだ。

(緊急事態か?)

 ぼくは背中から冷水をかけられたような気分だった。

(愛花……)

 中に入ると、分娩台で仰向けになっている愛花が、顔を歪めながらぼくに手を差し出した。

「……お願い。手を握っていて……」


 粟飯原さんの顔を窺うと、彼女は頷いて見せた。

「分かった」

 ぼくは愛花の頭の近くに立ち、彼女の両手を握った。


「うっ…ううっ……」

 愛花は物凄い力でぼくの手を握り返した。

「がんばれ、愛花。ヒロシ君の子供が、もうすぐ出て来るぞ」

「はい……。ぐううっ……」

 愛花は歯を食いしばっていた。


「もうすぐよ」

 粟飯原さんも、愛花を励ましながら、その足元で出産を待っていた。

「園宮さん、頑張って。今、頭が見えたわ。もう少し。もうすこしよ。頑張って」

「は、はい……! ああっ……」

 愛花の指がぼくのてのひらに食い込むくらい握った時、力強い産声が聞こえた。


「産まれたわ……!」

 産声と共に取り出された赤ちゃんは、その呼び名の通り、真っ赤だった。グロテスクな表現をすれば血まみれだった。

 看護師さんの手に委ねられた赤ちゃんは、産湯につけられ、鼻の穴や口に溜まった血液を、手際よくスボイドで吸い取ると、タオルにくるまれ、ようやく愛花に手渡された。


「園宮さん、よく頑張ってわね。女の子よ。とてもスムーズな出産だったわ。赤ちゃんもとても元気だから、何の心配もいらないわ」

 おめでとう、と言って粟飯原さんは慌ただしく手袋を外すと、二人の看護師さんに目を向けた。

「笠井さん。今川さん。後は頼んだわ。―――春木君も、園宮さんのこと頼んだわよ」

 それだけ言うと慌ただしく分娩室を出て行った。

 どうやら次の分娩が控えているようだ。


 愛花は疲れと喜びの混ざった、しどけない表情でわが子との対面を果たした。

 達成感からか、愛花は脱力した笑みを浮かべていた。

美宙みそら……はじめまして……わたしがママよ」

 そう言うと愛花はぼくに赤ちゃん ――― 美宙を向けた。

「この人があなたの名付け親よ」

「そう言うことになるのかな」

「そうよ。大輔さんが、美宙の名付け親なんです」



 数ヶ月前だった。

 愛花のお腹の子供が、90%以上の確率で女の子と分かった時、ぼくたちは名前を考えていた。

宇宙ひろしの名前、どちらか一字は、この子の名前に入れたいの」

 それが愛花の想いだった。

「宇は、思いつかないわね……。宙で考えるとなると……『そら』と呼べますよね」

「そうだね。でも、ソラだと男の子でも使える名前だし、宙の一文字だけだと、なんか硬い感じがするな」

「言われてみれば…そうですね。でも、この子の名前には絶対に宇宙ひろしの、どちらかの一時は入れたいんです。それだけは譲れない」

「そうだな……」

 とぼくは少しだけ考えて、

美宙みそらって言うのはどうだい? うつくしいそらと書いて、美宙」

「あっ、それいいですね」

 軽いノリのような感じで言った言葉だった。

 だけど愛花は、ぼくが思っていた以上に、その名前を気に入ったようだ。

 数日後、赤ちゃんの名前が『美宙』で決定したと聞かされ、ぼくは驚いた。




 美宙を抱いている愛花が、いきなりポロポロと泣き出した。

 歓喜の涙だと思ったが、その表情は硬かった。

「どうした? どこか具合が悪いのか?」

「ううん。何でもないの……ただ…」

 愛花は美宙の顔を眺めながら更に涙を流した。

「美宙に申し訳ないと思ったの。………だって、この子は、生まれた時から父親がいないのよ。これからも、父親と過ごす時間も知らないまま……育って行くのね……。それを思うと…不憫ふびんでならなくて……」

 そう言って、愛花は嗚咽した。


(どんな言葉を掛ければいいのだろう)

 ほくは何も言えないまま、愛花の肩に手を添えることしか出来なかった。

 しばらくして、桃子さんと隆二が駆け付けると、愛花はそれを嬉し涙に振り替えた。

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