第74話 悲しい笑顔





 橘の試験が終わり部屋から出て来た時には、愛花は受け持ちの受験生たちの講義に入っていた。

 橘のテストの成績は三教科の平均が九十二点だった。


「高校入試だからって舐めていたけど、結構難しかったわ」

 と橘は溜息ためいきを吐くも、事務の水谷さんは満足気な笑顔を見せていた。

「この問題は、二年前の県立高校の入試問題なんです。偏差値72の高校の平均値が八十七点だから、試験対策もしないまま受けたにしてはかなり優秀ですよ。講師としての合格ラインが八十点なので、余裕の合格です」

「ああ。よかった」

 橘はホッとした顔になった。


「それで園宮さんは現在、講義に入っているのよね」

 と橘はぼくに尋ねた。

 ぼくが頷くと、橘は水谷さんに目を向けた。

「あの、講義の見学をさせてもらっていいでしょうか?」

「見学ですか? そうですね……」

 水谷さんはしばらく考えて、

「いいと思いますよ。園宮さんの後を引き継がれるのでしたら、勉強内容なども含めて、生徒さんたちとも面識があった方がいいかもしれませんね。それじゃ、こちらいらして下さい」

 と水谷さんがイスから離れると、橘はぼくを振り返りった。

「二時間も待機させちゃってごめんなさいね」

「気にするなって。コーヒーの美味しい駅前のカフェでのんびりする時間が取れて、おれも久しぶりにリラックスできたよ」

「そう。それなら良かったわ。それと愛花ちゃんはわたしが送り届けるから後は任せてね」

「気にしなくていいよ。あいつは大学もバイトも一人で頑張っているんだし、適度の運動だって必要なんだから」

「違うの。わたしがそうしたいのよ。――― あっ、水谷さん、待たせちゃってごめんなさい ――― それじゃね、春木君」

 橘は軽く手を振ると、ぼくに背中を向け、教室のドアの前で待つ水谷さんに向かった。


『大輔さん、わたしが終わるのを待たないでくださいね』

 と愛花に釘を刺されていたので、

「それじゃ、おれは帰ります」

 と顔見知りの事務の女性達に挨拶して、ぼくはアンビシャスのビルを出た。

 だが、ぼくには予定があるわけでなく、こんな時に足が向かうのは、やはり彩香の眠る場所だった。




 市営墓地の彩香のお墓に花を添えて手を合わせた後、ぼくはすぐ近くにあるヒロシのお墓に向かった。

 すると、ヒロシの墓の前でヒロシの両親と鉢合わせになった。

 父親の方は仏頂面だったが、ヒロシの母は困ったような表情を浮かべた後、ゆっくりとお辞儀をした。

「春木さん、ご無沙汰しています」

 とヒロシの母の方から声を掛けて来たので、ぼくも慌てて「お久しぶりです」とだけ返した。


 少し間を置いて、

「愛花ちゃん、どうしていますか?」

 とヒロシの母が聞いた。

 榊原夫婦とは、面識こそあれど、その性格を知るほど親しくはなかったが、なんとなくだが、愛花対するわだかまりを、未だに引きずっている事は感じ取れた。


「愛花は来年の一月十五日が出産予定日です」

「ああ……そう…なんです…ね」

 と言ったが、奥歯に物が詰まったような歯切れの悪さを感じた。

「どうかされましたか?」

 そう切り出すと、ヒロシの母はぼくに目を向けた。

「あの……」

 と少し間を置いてから、

「愛花ちゃんの…お腹の子供は……本当に、ヒロシの子供なんでしょうか?」

 意外な言葉を口にした。

「どういうことですか?」

「本当は、春木さんの…子供じゃ……ないんですか?」

「―――!!」

 ぼくは言葉が出なかった。


「わたしが興信所に頼んで、園宮さんの身辺調査をしてもらったんだよ」

 黙っていたヒロシの父が初めて口を開いた。

 興信所という言葉でぼくは更に驚いてしまった。 


「それを裏付ける決定的な証拠は出て来なかったけど、仕事以外の時間、キミは…ずっと園宮さんの傍にいるようだな。ヒロシと懇意こんいにしていたのは知っているが、園宮さんとの距離が近過ぎやしないか?」

 ヒロシの父がキッと睨んだ。

「あんまりじゃないか……。ヒロシが死んで半年と少ししかたっていないんだよ……。それなのに……別の男と………。あの子のお腹の子だって、誰の子か分かったもんじゃない。ヒロシがアメリカに渡ったスキを狙って、キミと関係を持った時に出来た子供じゃないのか?」


(そういう風に捉えていたのか………)

 怒りよりもあきれ返っていた。


「キミも嗅ぎつけているんだろ? ヒロシの遺産のこと」

 とヒロシの父親が言った。

「なんですか? それ」

「とぼけなくていい。保険会社と航空会社から、かなりの損害賠償金が入ったことくらいは知っているはずだ。園宮さんがヒロシと恋仲だったのは周知の事実だ。それを良いことに、ヒロシの子を身籠ったことにして、わたしらから金銭を巻き上げようとしているんだろ?」

「………!!」

 あまりの事にぼくは反論する言葉すら出て来なかった。


「ヒロシがわたしたちに残してくれたお金なんだ。おまえたちの様な不貞の輩に、びた一文あげるつもりはない」

「何を言っているんですか? 榊原さんの言っている言葉の意味がぼくには分らない」

「分からないだと? ふざけるな。あの子のお腹の子供を、ヒロシの子供だなんてこと、これ以上吹聴ふいちょうするなって言っているんだ」

 ヒロシの父は完全に理性をなくした顔になっていた。

「ヒロシは自分の命と引き換えに、わたしら夫婦とアリサのために残してくれたお金なんだ。これ以上変なこと言って金に群がろうとするな」

「待ってください。ぼくがいつ、ヒロシ君の遺産に群がろうとしました? 愛花だってそんなつもりでヒロシの子供だと言っているわけじゃありませんよ。事実をそのまま伝えているだけです」

「だから、あの子には、先手を打たせてもらった」

「先手を?」

 ヒロシの父の言葉に、ぼくは背中が冷たくなる錯覚を覚えた。


 彼は言葉を続けた。

「一月ほど前、園宮さんの家を訪問して、はっきりさせて来たよ」

「………!」

「二度とヒロシの子供だとかたるな。お腹の子供は絶対にヒロシの子供とは認知しないと、強く言ってやったよ。渡す義理はないけど、手切れ金に百万円を渡そうとしたが、受け取らなかったよ。まあ、受け取らなくとも、お腹の子供を認知しないのは変われないけどな」


「あんた!」

 ぼくはヒロシの父に詰め寄った。

「そんなひどいことを愛花にしたのか!」

 大声を上げていた。

 ぼくの態度にヒロシの父は狼狽ろうばいを見せた。

(この親が…本当にあのヒロシの親なのか……!)

 信じられなかったし、信じたくもなかった。


 そして何よりも愛花のことが気掛かりだった。

 ここ一ヶ月くらいから、愛花はよく話し、良く笑うようになっていた。

 元気に振舞っている部分はあるだろうが、ほんの少しくらいは心から笑っている瞬間があるかもしれない。そう思っていた。

 でもそれはぼくの思い過ごしだった。

 愛花はぼくの知らない所で深く傷ついていた。

 それを悟られないため、ぼくの前で笑っていただけなのだ。

(愛花……!)

 ぼくはもう、この場にいたくなかった。

(こんなオッサンたちに構ってなんかいられない)

 ぼくは挨拶もせずにヒロシの両親に背中を向けて駆け出した。




 アンビシャスに戻ると、しばらくして愛花と橘が教室から出て来た。

「あら、大輔さん。いたんですね。折角のお休みなのにつき合わせて申しわけありま……」

 愛花は言いかけて言葉を止めた。

 ぼくの様子の変化に気付いたようだ。

 マジマジとぼくを見つめた。

「何かあったんですか?」

「ああ」

 とぼくは頷いた。

「今し方、市営墓地で、ヒロシ君の両親と偶然会ったんだ」

「………そう、ですか」

 勘のいい愛花だ。

 だいたいの察しは付いただろう。

 ぼくはうつむき加減の愛花の横顔を見る事が出来なかった。


「愛花……おまえがまだ、完全じゃないのを分かっていながら、少しはだいじょうぶなんじゃないかと、油断していたよ。酷いこと言われて傷ついていたのに、おれ、気付いてやれなかった。本当にごめん」


 傍にいる橘がぼくと愛花の様子を窺っていたが、今は立ち入ってはいけないと判断したようだ。静観を決め込んでいた。


 すると、

「大輔さん」

 愛花はニコリとした。

「わたし、だいじょうぶですよ」

「愛花……」

「そんな小さなことでへこんでいたら、母親になんてなれませんよ。わたしは絶対に、ヒロシから授かったこの子を大切に育てて行こうと思っています。だから、わたしはだいじょうぶです」

 愛花はもう一度ニコリとして見せた。

(おまえ、強くなったんだな……)

 いや、本当は辛く悲しいはずなんだ。

 それでも愛花は強くなろうとしている。

(おれも強くならなくては……愛花を守ってやれるくらいに)

 もしこの場に橘にがいなかったら、ぼくはきっと、愛花を強く抱きしめていただろう。


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