第73話 橘の退職





 翌日、ランチタイムで橘と話し合ったが、橘の退職の意志は固かった。

「わたしたちこれからもいい友達でいましょうね。わたしも園宮さんのことサポートするつもりよ。塾の引継ぎだってちゃんとするつもりだから、安心してね。とは言っても、辞めるまで一ヶ月もあるから、ランチは付き合ってね」

 満面の笑みでそう言った。



 十二月二十日を以って橘が退職する事が決定した。

 男性陣の間では、特に話題になっていた。

 熱を上げていた男性職員も少なくなかったようだ。


「橘って、もしかして寿退職なのか?」

「春木、おまえが橘の寿退職の相手なのか?」

「うらやましいな、このヤロウ」

 なんて事を勝手に言われて、その度にテンプレート化された否定を繰り返していた。




「そうなんだ。美幸ちゃん、辞めちゃうんだね」

 元気な男の子を連れて戻って来た琴美がそう言った。

 赤ちゃんの名前は信一郎。界人らしい古風な名前だった。

 土曜日だったので界人もいたし、愛花も一緒だった。


「琴美さん、しばらくは安静にしていてね。家事全般は出来るだけわたしがサポートしますから」

 愛花が笑顔で言った。

「そんなの気にしなくていいよ。愛花ちゃんには大学とバイトがある上に、二か月後には出産するんだよ。何かあったら大変だわ。無理は禁物だよ」

 琴美は心配そうに言った。

「無理なことじゃないですよ。だって、琴美さんのお家は大学に近いんだもの。講義の後に、休憩がてら寄らせてもらうって感じですよ」

「愛花ちゃんはわたしよりなんでも出来るから助かるけど、無理しないでね。手伝いなんて関係なく、大学帰りに立ち寄ってくれるのならそれは大歓迎よ」

「ええ。それくらいの気軽な気持ちで伺いますよ。サポートなんて偉そうなこと言いましたけど、実際問題として、休憩させてもらうことが多いかもしれませんしね」

「それでいいのよ。話し相手がいるだけで充分助かるよ」


「それより……」

 と愛花は琴美の腕の中で寝息をたてている信一郎に手を伸ばした。

「抱かせてもらっていいですか?」

 目をキラキラさせてそう言った。

「いいよ。どうぞ」

 琴美が差し出すと、愛花は恐々こわごわと信一郎を受け取った。


「首がすわってないから、頭を反らせないようにしてね」

「はい……えっと……こんな感じですか?」

「そうね。そんな感じよ。上手よ」

「あ、ありがとうございます」

 言いながら愛花は信一郎を抱き寄せた。

「小っちゃくて、可愛いわ……。それに、なんて甘い匂いなの」

「でしょ? 愛花ちゃんも二か月後にお腹の子供を抱くことになるのよ。楽しみでしょ?」

「はい」

 愛花はウットリと穏やかな表情を見せた。

 久しぶりに見せる愛花のそんな表情に、ぼくは少しだけホッとした。


 愛花は今も、ぼくの知らない所で、ヒロシのいない悲しみと戦っているに違いない。

 時には、闇からのいざないに、足を引っ張られそうになっていたかもしれない。

 そんな時、愛花に前を向く力を与えているのが、お腹の中にいるヒロシの忘れ形見の存在だった。

(この子がいる限り、愛花は生きていけるだろう)

 だからぼくは、愛花のためにも、お腹の子供は無事に産まれて来て欲しいと願った。


「確か今日、わたしのバイトに合わせて、橘さんはアンビシャスに来る予定ですよね」

 と愛花が聞いた。

 ぼくは頷いた。

「橘なら問題ないと思うけど、進学校を目差す子供たちを教えるんだから、いくら大阪大学出たと言っても、一応は現在の学力判定をしないといけないからな」

「橘さんがわたしの穴を埋めてくれるのは、願ったり叶ったりなんですが、県庁を辞めてしまうことは、申しわけなく思ってしまうわ……」

 愛花は複雑な表情を浮かべた。

「愛花が気に病むことじゃないよ。橘は大人の判断でそう決めたんだ。おれの説得にも首を縦に振らなかったからね。愛花にはこれっぼっちも責任はないよ」

(責任の一端があるとすれば、おれの方なんだから)

 そんな思いが頭をもたげたが、口には出さなかった。




 アンビシャスの入る雑居ビルの下で、橘と待ち合わせていた。

 彼女は時間通りにやって来た。

 数ヶ月ぶりに来るアンビシャスの一階エントランスに入って、ぼくは驚いた。

 五階建てビルのすべてのフロアーがアンビシャスで埋まっていたのだ。

「すごいな。急成長って感じだな」

「でしょ? アンビシャスは講師陣が高学歴なのに他の進学塾よりも受講料が安いから、すごく人気なの。志望校合格の実績だって、群を抜いていますしね」

 愛花の言葉に、

「うわあ、なんかすごく緊張して来たわ」

 と橘が言った。

「わたしに勤まるかしら」

「だいじょうぶに決まってるじゃないですか」

 と愛花は笑った。

「橘さんならブランドもスペックも問題ありませんよ」

「それ言われると、却ってプレッシャーになるわよ」

「あっ、ごめんなさい」

 愛花が慌てて謝ると、橘はクスクスと笑った。

「ありがとう。今ので緊張の糸がほぐれたわ」

 そんな橘を見て愛花も笑顔を見せた。


 事務室に入ると、

「やあ、春木君久しぶりだね」

 峰山さんが満面の笑みでやって来た。

「キミの隣りにいる人が、橘さんかい?」

 峰山さんの言葉に橘は会釈で反応した。

「橘美幸と言います。出身大学は大阪大学法学部です」

「いいね、いいね」

 峰山さんは相変わらずハイテンションだ。

「愛花ちゃんからサラリと聞いているけど、県庁を辞めて、産休の愛花ちゃんの引継ぎしてくれるってことだけど、本当の良いのかな?」

「はい。十二月の二十五日をもって退職となりましたから。それ以降になりますが、よろしいでしょうか?」

「もちろんだよ。愛花ちゃんは今年いっぱいバイトして一月から産休に入る予定だから、ちょうどいいよ。 ――― ということで、申しわけないんだけど、アルバイトとは言え人を教える仕事だから、学力テストに合格してもらいたいんだ。受けてもらっていいかな」

「ええ。望むところです」

 臆する様子もなく橘はそう言った。

 自信の程が窺えた。


「じゃあ、隣りの部屋で試験にのぞんでもらおうか」

 峰山さんは言いながら体を反らして受付の女の人の方に目をやった。

「水谷さん。こちらの彼女 ――― さっき話していた橘さんだけど、プライベートルームで例のテストを受けさせてやってくれないかい」


「はい。テスト用紙は用意できています。英・国・数の三教科でいいですね」

「ああ、頼むよ。それじゃ橘さん、水谷さんについて行ってテストを受けてください。二時間で三教科をこなすわけだけど、だいじょうぶかな?」

「はい。問題ありません」

 それじゃ行ってきます、と橘はぼくと愛花に手を軽く手を振り、峰山さんに会釈すると、事務の水谷さんに付いて行った。


 橘を見送った後、峰山さんが愛花を見た。

「確か、担当医は粟飯原あいはらさんだったね。彼女、元気にやっていたかい?」

「はい。正直にものを言うサバサバした方で、わたしはあの先生好きですよ」

「そうか、そうか。相変わらず変わってなさそうだな、あの人」

 峰山さんは笑っていたが、遠くを見るような眼差しを向けていた。


「あのぉ」

 と愛花が遠慮気味に峰山さんの顔を覗き込んだ。

「粟飯原先生も峰山さんのこと、とても気にしておられました。アンビシャスのスターティングメンバーだと話していましたが……」

 言いながら愛花は、事務所の壁に飾ってあるスターティングメンバーの写真に目をやった。

 そこには峰山さんとぼくを含む、七名のスタッフが写っていたが、粟飯原さんの姿はなかった。


「あれ?」

 と言って峰山さんはぼくを見た。

「春木君から聞かなかったのかい?」

「何をですか?」

 愛花がキョトンとした顔をすると、峰山さんは苦笑した。

「まあ、春木君ってそう言うとこあるよね。―――まあ、一般的には人の陰口とかプライベートを誰かにベラベラ話す人間は、あまり称賛されないけど、愛花ちゃんにだったら、ぼくたちのこと話してもいいんだよ」


 ぼくはそれに対してどう返事していいのか分からず、黙り込むしか出来なかった。


 峰山さんは愛花に目を向けた。

「言ってしまえば、ぼくと粟飯原さんは、『昂輝こうきくん』『真奈美さん』って呼び合う仲だったってことだよ。結局ぼくが振られたんだけどね」

 そう言った後で、峰山さんはぼくの肩をバンバンと叩いた。

「アハハハ、そんな顔しないでくれよ。キミを責めているわけじゃないよ。春木君は春木君だからね。誰かが心に抱えているものを別の人には明かさない ――― それがキミの良いところだとぼくは思っているよ。でも世間では、表面的に口八丁くちはっちょう手八丁てはっちょうの人間の方が有能だと見られるきらいがあるから、春木君は就活でずいぶん苦労したのは、舌先三寸の面接対応が出来なかったからなんだよ。フタを開ければ中身はとても優秀な人材なのにね」

 そこまで言った後、峰山さんは時計を見て、アッと言う顔を見せた。

「ごめん。今から尼崎店に向かわなきゃいけないんだ。それじゃ失礼するね」

(相変わらず慌ただしい人だ)

 峰山さんはカバンを手にすると、事務所を飛び出した。

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