第72話 恋のライバル





 

 橘は、翌日さっそく退職願を提出したと話した。

 直属の上司は、受理を渋って中々受け取ってくれなかったが、橘は強引に退職届を置いて来たようだ。


 それでも、有能な橘を失いたくなかった上司は、彼女と親しいぼくの部署に来て、

「考え直してくれと一週間の保留にして置いた。春木からも残留を言い利かせてくれないか」

 とぼくに頼み込んだのだ。


(だけど……)

 引き止めるのないぼくには、橘の退職を強く止める事は出来なかった。


 覚悟 ――― それは橘を恋人にする覚悟だ。


 もしぼくが誰よりも彼女のことを女として愛しているなら、「おれのために辞めないでくれ」と言ってのける事が出来る。

 かりに誰かが、

『それじゃ春木は、橘のこと、あまり好きではないのか?』

 そう問われたら、ぼくは激しく首を横に振るだろう。

 そんなの、好きに決まっているじゃないか。

 

 橘を恋人にしたいと願う男はたくさんいるくらいぼくだって知っている。

 彼女は、女性としても人間的にも魅力あふれるひとだ。

 ぼくなんかが、おいそれと近づける相手ではない。

 そんな彼女が、真っ直ぐな瞳を向けて、ぼくを好きだと言った。

 普通なら断る理由などないんだ。


(だけど……)

 ぼくはまだ、彩香から心が離れていなかった。

 女友達として傍にいる分は問題ない。

 しかし、恋人と言う関係を想像した時、ぼくの目蓋まぶたに、淡い灯火ともしびのような彩香の姿が飛び込んで来るのだ。


 本当なら結ばれるはずの二人だった。

 まだまだ生きたかったはずだ。

 辛かったろう。

 悲しかったろう。

 そんな彩香の想いがぼくの胸から離れなかった。


(こんな思いを抱えたまま、橘と付きは合うなんて出来ない)


 ――― 大ちゃん、橘さんはいい人よ。わたしのことは気にしないで、付き合いなさいよ ―――


 ぼくの心の小部屋にいる彩香がそうささやいてくれるのが分かる。

 でもぼくは、彩香を忘れて他の女性と幸せになるなんて気持ちにはなれないし、こんな気持ちを抱えていて、相手を ―――橘を――― 幸せに出来るとは思えなかった。


(おれはどうしたらいいんだよ……!)

 ぼくは塞ぎ込むことしか出来なかった。




 その夜、ぼくの足は自然と界人の家に向かっていた。

 三日後に、生まれたての子供を連れ、琴美が返って来るのだ。

 その準備に忙しいのは分かっていた。

 それでも界人はこころよく部屋に入れてくれた。

 橘が退職届を提出した事や、彼女の退職を強く制止できない自分の気持ちも通話で伝えていた。


「すまない、大変な時なのに」

 ぼくがあやまると界人は笑った。

「気にするな。赤ちゃんの受け入れ準備なんて大したことないよ」

 言いながら界人はぼくに缶ビールを手渡した。

「橘さんを強引に引き止められない大輔の気持ちもわかるが、橘さんの気持ちもすごく分かるよ」

 缶ビールのプルタブを開ける界人の言葉に、ぼくは耳を傾けた。

「もしおまえが、橘さんの気持ちを受け入れて、引き止めたなら、おそらく彼女は退職を思いとどまると思うよ。おまえも、それは分かっているみたいだがな」

「ああ」

「でもな、駆け引きの材料として、退職届を出して来たんじゃないのは確かなことだ。橘さんはそんなひとじゃない」

 ぼくもそれには同意して頷いた。

「おまえが今も、立花を忘れられず、一途に思い続けていることは彼女も理解しているし、そんな大輔だからこそ好きになったわけだ。これから先何年も、友達のままでいつづける覚悟もしていたと思う」


 ぼくはその言葉にどう返していいのか分からず、界人からもらった缶ビールのプルタブを黙ったまま開けた。


「大輔。おまえ、もしかして気付いてないのか?」

 ふいに界人が尋ねた。

「橘さん、五年は友達でいいと言ったんだろ? なのに彼女は今、おまえと距離を取ろうとしている。あの頃と今とでは、状況がどう変わったのか考えてもみなかったのか?」

「状況? おれは何も変わってないと思うけど」

「おまえ自身はな。―――考えろよ。おれたちの中で大きく変わったものと言ったらなんだ?」

「……ヒロシ君……か」

「そうだ。園宮さんと将来を約束したヒロシ君が死んでしまったことで、状況が大きく変わったんだよ」

 界人は缶ビールをグィッと飲むと話を続けた。

「大輔自身は、おまえの心の中にある、立花へのこだわりが原因だと思っているようだが……橘さんの胸の内にあるものは、それとは違うものなんだよ」

 つまり、と界人は缶ビールの残りを一気に飲んだ。

「橘さんのライバルは、今や、立花ではなく生きている園宮さんへと変わったってことだ」

「ち、ちょっと待て、おれと愛花は…」

「分かってるよ」

 ぼくの言葉をさえぎるよう、界人は右のてのひらをぼくに向けた。

「大輔と園宮さんとの関係が、どれくらいピュアなものなのか、おれたちは知っているさ。でもな、大輔に恋している橘さんの目にはそうは映らないんだよ」


 ぼくは言葉が出なかった。

 界人は続けた。


「立花がライバルであったなら、時間が解決してくれて、寄り添っていればいつかは自分を振り向いてくれる ――― だから橘さんは五年先も友達のままでもいいと言えたんだ。だけど、ヒロシ君が突然逝ってしまい、一年前のお前とまったく同じ思いを抱えた園宮さんがいて、おまえは一杯一杯になるくらい、彼女を気づかっているだろ? ――― 大輔は気付いてないかも知れないけど、現在おまえの心の中を大きく支配しているのは、立花ではなく、園宮さんなんだよ。違うか?」


 界人に指摘されるまで気付かなかった。

(おれ、最近彩香のことを考える時間が減っている……)

 彩香への想いは強くある。

 しかし、ヒロシが逝って以来、愛花を心配する時間の方が、多くなっていた。


 仕事していても、ふとした瞬間に、愛花を心配になる事がたびたびあった。

(変な気持ちを起こしてないだろうか)

(体調は問題ないだろうか)

(泣いてないだろうか)

(今、どうしているんだろう?)


 そんな時、ぼくはもう仕事が手につかず、トイレをよそおってメッセージを入れてしまうのだ。

 愛花だっていつもスマホに出られるほど暇じゃないのは分かっている。

 大学の講義もあれば、アンビシャスのバイトもある。

 だから、鬼電にならないよう、ワンメッセージを入れたら、大人しく待つ事にしていた。

 返信があればホッとして仕事モードに入れたが、返信が遅ければ、その間モヤモヤした状態を抱えたまま、低効率で仕事をしなければならなかった。


(そういうことか……)

 今更ながらそれに気づかされた。


「おれは、大輔のそれを園宮さんへの恋心とは思ってないよ」

 と界人は言った。

「大輔にとって園宮さんは、恋人をうしなった同志のような存在なんだよ。そこには下心や見返りなんて一切ない ――― 分かり過ぎるくらい分かっている園宮さんの気持ちに、おまえが全力で寄り添っているだけなんだよ。でもな、橘さんからすれば、共通の想いを抱く園宮さんが相手では、自分は遠く及ばないと思い知らされたんじゃないかと思うんだ」

 これは仮の話だ、と前置いてから界人は話しを続けた。

「大輔は園宮さんの彼氏・ヒロシ君とはすでに友人だし、園宮さんも短い期間ではあるが、立花と深く関わりを持っていた。つまり、亡くなった相手のことをよく知る者同士なんだよ。――― おまえはきっと、この先もずっと立花を忘れる事が出来ないし、園宮さんだってヒロシ君を忘れることは出来ないと思う。そんな大輔や園宮さんが未来を歩む相手がいるとしたら、心の中にある大切な人の存在を、認めてくれる相手でないとダメなんじゃないのか?」


 どう答えていいのか分からないぼくは、缶ビールを一気に飲み込んだ。

「きっと大輔と園宮さんは………」

 と界人は何か話そうとしたが、途中で止めた。

「まあ、今はいいか……」

 そう言った後、ぼくに缶ビールを手渡し、界人も二缶目を開けた。

「まあ、結論だけ言うと『申しわけないから橘さんの気持ちに応える』なんてことは却って失礼だからな。大輔も橘さんも、もう大人なんだから、出処進退は自己責任だ」

「なんか冷たくない、それ」

「物事の決断するのは自分自身という話だ。橘さんが誰かに依存するだけの人間だと思うのか? 今回のことだって、大輔にどうにかして欲しくて揺さぶりをかけてきたわけじゃないんだ。―――それを踏まえた上で、橘さんのこと、気に掛けてやればいいと思うよ」

「そうだな」

 明日、ぼくは橘ともう一度話してみようと思った。

 すれ違って決裂した訳ではない。

 橘とのランチタイムは健在なんだから。

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