第71話 琴美の出産





 秋風が吹く十一月。

 甲子園出場を果たし、ベストフォーに残る健闘を見せた須磨学園の水沢は、大神ダイシンクーガースにドラフト二位で入団指名を受けた。


 それから三日後、琴美の分娩ぶんべんが始まった。

 午後九時の出産だったので、急いで帰宅した界人は、分娩に立ち会う事が出来た。

 ぼくと愛花は待合室にいた。橘も駆けつけてくれた。

 やがで元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえて来た。


「産まれた……!」

 合掌していた愛花が、潤んだ瞳を分娩室に向けた。

「元気な声だわ。無事に産まれたのね。よかったわ」

 橘も頬を上気させていた。


 しばらくして界人が分娩室から顔を覗かせ、ぼく達を手招きした。

 分娩室に入ると、診察台に横たわる、疲れた顔の琴美が、笑顔で手を振った。

 小さなベッドの上には生まれたての赤ちゃんがいた。


「3270グラムの元気な男の子よ」

 琴美の担当医・粟飯原あいはら真奈美さんが ――― いや、先生と言うべきか ――― 笑顔でそう言った。


「だいじょうぶでしたか?」

 愛花が真顔で琴美に尋ねた。

 三か月後には愛花もこの分娩台に上がるのだ。不安が込み上げて来たのだろう。ちょっぴり唇を震わせていた。


「苦しくなかったと言えば嘘になるけど、大好きな人の子供を産むんだもの。乗り切れるよ。だいじょうぶ。愛花ちゃんも乗り越えられるよ」

「はい。頑張ります」

 愛花は、目立つようになった自分のお腹を摩り、不安を覗かせながら頷いた。


「でもね、一番苦しかったのは、痛いのに笑いそうになったことよ」

 琴美はそう言ってクックックッと声を殺して笑っていたが、ぼくには意味が分からなかった。それは愛花や橘も同じだったようだ。

「ラマーズ法のことよ」

 と琴美は笑いをこらえながら言った。


 ラマーズ法とは「ヒッヒッフー」と呼吸に意識を向ける事で、気持ち(精神)に余裕をつくり、出産に対する恐怖感や緊張を取り除いて、リラックスさせることに目的を置いた呼吸法である。

 妊婦が単独で行う場合もあるが、より深い安心感とリラックス効果が得られる、二人で行うラマーズ法を、界人たちは選択していた。


「界人さんとわたしで、楽に出産できるよう、ずっと二人で練習していたんだけど ――― 練習の時はそれほどでもなかったのよ。界人さんは多分極度きょくどに緊張していたみたいね。――― クックックッ ――― 本番を迎えた時の界人さんの「ヒッヒッフー」が物凄い顔になっていてね ――― もう、なんて言うのかな。究極のヘン顔? クフフフ、もうダメ。お腹痛いのに笑けてしまう」

 そう言いながら琴美は、痛みに苦しみながらも、笑いを止められない様子だった。


 それを傍で見ていた粟飯原さんも、口元を手で押さえ誤魔化ごまかそうとしていたが、笑っているのは明らかだった。

「笑いながら出産する妊婦さん、初めて見たわ。どうなることかと思いましたよ」

 それだけ言うと再び口元に手を置いた。


「ひどいなぁ、おれはおれで、必死だったんだよ」

「界人。だから笑いが止まらなかったんじゃないのか?」

 とぼくは笑いながら界人の肩に手を置いた。

「おまえ、自分の必死顔、鏡で見たことないだろう? 一度自分で見て見ろよ。笑いが止まらなくて腹筋がパンパンになんるぞ」

 ぼくがそう言うと、粟飯原さんは我慢できずに笑い声をらした。

 その後、界人と琴美の両親がやって来たので、ぼくは愛花や橘と一緒に、県立病院を後にした。


「園宮さんを家に送り届けてあげるんでしょ?」

 橘が聞いたので、ぼくは頷いた。

「わたしもついて行くわ。それより、園宮さん、家まで徒歩で大丈夫なの?」

「ええ、だいじょうぶです。お医者さんからは、ゆっくりでも歩くようにと勧められていますから」

 愛花は笑顔で答えた。


(それよりも)

 愛花の様子が気になっていた。

「やっぱり、不安なのか?」

 ぼくが聞くと愛花は頷いた。

「わたし……うまく出産できるかしら」

 と視線を落とした。


(やはり、それを心配していたのか……)

「だいじょうぶだ。なに心配してんだよ」

 とぼくは笑いかけた。

「粟飯原さんは新米の先生だけど、すでに五十人以上の出産に立ち合っているんだ。いずれも親子ともども無事に分娩を終えている。粟飯原先生は、優秀な先生だ」

 普段なら、優秀な先生じゃないのかな、と少し弱い表現をしていただろう。

 だけど、そんな曖昧あいまいな表現は、却って余計な不安をあおってしまう。

 だからぼくは粟飯原さんが優秀な医者だと断言したのだ。

「粟飯原さんに任せて置けばだいじょうぶだ。な、愛花」

「う、うん」

 頷いて見せたものの愛花の表情は冴えなかった。

(マタニティブルー……というヤツか)

 メンタル的な部分のケアはぼくには荷が重すぎた。


「それに、気掛かりなことがもうひとつあるんです」

 と愛花は言った。

「出産前後の数週間、わたしは講義が出来なくなります。しばらくは峰山さんが授業を受け持つと、言ってはくれているんですけど……あの人、今とても忙しいんです」


 来年の春から、大阪に近い尼崎市にアンビシャス二号店を開設する事が決まっていた。

 つまり峰山さんは現在、東奔西走とうほんせいそうの真っ只中にいるのだ。

「出産も不安ですが、高校受験のラストスパークを掛ける大切な時に、戦線離脱してしまうのが、とても申しわけなくて……」

「もしかして、出産よりもそっちの方が気掛かりだったのか?」

「かもしれません」


(おれが力になれたらいいんだが……)

 愛花の弟・隆二が高校受験の時、交通事故に遭った講師に代わって、臨時講師を務めたぼくはまだ大学生だった。

 しかし今のぼくは県職員だ。

 副業は県庁規約に抵触ていしょくする行為だった。


「それ、わたしに任せてもらっていいかしら?」

 と言ったのは橘だった。

「わたしは学生時代、家庭教師のアルバイトだけで稼いでいたのよ。講師って立場で教えたことはないけど、高校受験ならすぐにでも対応できると思うわ」

「ちょっと待てよ、橘。副業は県職員の規約違反だぞ」

「分かっているわ。だから、県職員じゃなければいいでしょ?」

「えっ? 何言ってるんだ?」

「わたしね、県庁を退職しようと思うの」

「…………!」

 ぼくは驚いて声も出なかった。


「どうしてですか? なんで退職しちゃうんですか?」

 愛花が立ちふさがるよう橘の前に立った。

 橘は苦笑いを浮かべ、

「わたしは、常に一杯一杯だったの」

 と言った。

「わたしは元々対人スキルが低かったのよ。県庁に入った頃は、みんなとどんな風に接していいのか分からずにいたわ。そんな時、わたしと同じような感じでオドオドしている春木君と出会って、なんだかとても安心したのよ」


 入庁当初の橘は、正直言って、ぼくと遜色ないレベルで、コミュニケーション能力は低いと感じた。

 だけど、今の橘か違った。

「おれは今でも対人スキルは低いけど、橘は日ごとにコミュニケーション能力を飛躍的に伸ばしていたじゃないか。おれは凄いと思ったよ。おれも見習わなきゃって思えるほど成長していたし、そんな橘を尊敬していた」

「尊敬だなんて、おおげさね」

「いや、本当にそう思っているよ。今の橘の対人スキルは県庁でも上位に分類されるはずだよ。そこまで頑張ったのに、どうして辞めるって言うんだよ。なにかあったのなら話してくれないか」

「そうね。具体的に嫌なことと言ったら、先輩たちの食事の誘いがくどいことくらいかな。でも、そんなことは些細なことなのよ。最初に話したように、わたしはこの一年と半年のあいだ、ずっと一杯一杯だったのよ。 ――― 笑いたくないのに笑わなくちゃいけないし、話したくなくとも会話から逃げられない ――― そんな、表面だけつくろった形で、しのいでいる毎日が、とてつもなく辛いと感じ始めているの。もう、限界なのよ。 ――― それが正直な気持ちね」

「職場の環境とか仕事内容とかが、会わなかったということか?」

「そうね。そのどちらも含め、それ以外のすべてが合わなかったのかもしれないわね。いつかは馴れると頑張っていたけど、いつまでたってもかかとを地面につけられず、つま先立ちのまま踊り続けている、そんな毎日が続いているの。もう疲れちゃったのよ、わたし」


「ですけど、わたしのために辞めるみたいで、申しわけないです」

 と愛花が言った。

 橘は愛花に微笑んで見せた。

「最近ずっとやめる事ばかり考えていたのよ。何かきっかけになるものを捜していた―――というのが本当のところよ。だから園宮さんが気に病むことはないのよ。むしろ辞める口実を得たって感じで、むしろ園宮さんには感謝したいくらいよ。今から退職願提出しても、今年いっぱいはかかると思うけど、園宮さんはそれまで頑張れる?」

「だいじょうぶです。出産は一月十五日ですから、年内は講師を務めます。 ――― 本当に引き継いでもらっていいのですか?」

「ええ、わたしで良ければね」


「本当に辞めていいのか?」

 ぼくが聞くと橘は頷いた。

「ごめんね、ずっと黙っていて」

「いいや、おれの方こそゴメン。おれ、一つのことしか出来なくて、橘のこと気づいてあげられなかった。いっぱい助けてもらったのに、なんにもお返しできなかった。―――今からでも、おれに出来ることあるか? 言ってくれよ、橘」

 ぼくがそう言うと、橘はハッとするほど悲しい顔を見せた。

 そして何か言おう唇を開いたが、その口元はすぐに閉じられた。

 橘は小さく首を横に振ると、いつもの笑顔を見せた。

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