第70話 大切な仲間





 週明けのランチタイムで、ぼくは愛花の懐妊かいにんを、橘に告げた。

 驚くだろうと思っていたが、意外にも彼女は動じなかった。

「あれ? もしかして橘は、愛花が妊娠しているって気付いていた?」

「まさか」

 と橘は苦笑いした。

「ただね、ヒロシ君とは深い関係を持ったんじゃないかなって ――― ほら、ヒロシ君に招かれて中華料理店に行ったでしょ? あの時の園宮さんとヒロシ君を見ていて、なんとなくそんな感じがしたのよ。誰かに吹聴ふいちょうすることじゃないから、言わなかったけど」

「女の勘ってヤツか。すごいな」

「そうよ。女を甘く見てはいけないってことよ。ウフフフ」

 ところで、と橘は話しを続けた。

「出産予定日はいつなの?」

「一月十五日って産婦人科医は言っていたよ」

「そうかぁ……園宮さん、お母さんになるのね」

 

 と、その時、橘の目が何かをとらえたように動いた。

 橘の視線の先を振り返ると、レストランのエントランスに近江誠也の姿があった。

 会計を済ませ、無言で釣銭つりせんを受け取って、出て行くところだった。

 以前の近江なら、

『美味しかったよ。また来るよ』

 とニコニコしていたはずだ。


「近江君も弟さんをうしなっって、なんか雰囲気が変わったわね」

「う、うん」

 とぼくは曖昧あいまいに返事をした。

 そうなのだ。

 同じ職場の近江誠也は随分と変わった。

 総務部・総務課の雑音とまで言われていた彼だが、以前のようなウザ絡みはなくなり、今では壊れたスピーカーと言われる程、物静かになっていた。

 悪いヤツではないのだが、ウザいと感じていたのは、どうやらぼくだけではなかったようだ。


 からんで来ないことは大変ありがたいが、弟・順平を失った彼の気持ちは分からなくもなかった。

 ヒロシを失ったぼくの思いは、きっと近江に近いものなのだろう。

 だからと言ってぼくから、近江の気持ちは分かるよ、なんて知ったかぶりな態度は出来ない。

 とらえる思いは人それぞれ―――十人十色なのだ。

 近江が何をどう感じ考えているのかまでは、ぼくには分らないし、深く踏み込めるほど、ぼくと近江の距離は近くなかった。




 近江の事はともかく、ぼくにとって大事なのは愛花のこれからだった。

 愛花は学業とバイトを懸命けんめいにこなしていた。

 ヒロシから託された新しい命の存在が、前を進むための原動力となっているようだ。

 そして、愛花が今一番頼りにしているのが先輩妊婦の琴美だった。

 琴美の出産予定は十一月だ。愛花より三ヶ月早い出産だ。

 大学とバイトの谷間には、専業主婦の琴美と過ごす時間の方が、ぼくよりも多くなっていた。


 妊娠を知ってからの愛花はナーバスだった。ちょっとした体の不調に過敏に反応して、

「だいじょうぶかしら?」

 と不安そうな顔を見せるのだ。


 そんな時の琴美の存在は大きかった。

「ああ、だいじょうぶだよ。わたしも妊娠二ヶ月ぐらいの時そんな感じだったよ。そのうち体も慣れて来て、苦にならなくなるから。アハハハハ」

 あっけらかんと笑い飛ばす琴美は、本当に心強い存在だった。


「琴美さんといるとなんだか安心します」

「そう言ってくれると嬉しいけど、少し気にし過ぎじゃないの? 愛花ちゃんが心配していることは、わたしが三ヶ月前に通って来た道なんだもん。問題ないって分かってるよ。ほら、わたしこんなにピンピンしてるでしょ? 変わったのはお腹のふくらみだけよ。それ以外は問題なし」

「そうみたいですね。もう少し気楽に構えます」

「それがいいわ。愛花ちゃんは少し気負い過ぎなのよ」

「ですね」

 琴美といる時の愛花はとても穏やかに見えた。



 休日に、琴美と愛花が一緒にいる時は、ぼくと界人がペアを組む事になる。

「ゴメンな、界人。休みの日くらいおまえも二人で過ごしたいだろうに」

 最近のぼくは愛花に甘くなっている。

 界人たちの二人の時間を潰す事を申し訳ないと思いながらも、どうしても愛花の気持ちを尊重してしまうのだ。

 しかし界人はカラカラと笑ってくれる。

「だいじょうぶだよ。昼間っからベタベタしないから。まあ、今は妊婦さんだから琴美もあんまり欲しがらないし、むしろ園宮さんとの時間を楽しんでいるようだから、おれとしても歓迎しているよ」

 ぼく達に対する配慮もあるだろうが、半分は本音だろう。ぼくと界人はい事も悪い事も、本音をぶつけられる相手なんだから。


「ヒロシ君のダイイングメッセージ、園宮さんにも見せたんだな」

 界人が聞いた。

「ああ」

「妊娠しているかもしれない ――― だから園宮さんの事後じごをおまえにたくしたかったというわけだな」

「違うと思うか?」

「いいや、おれもおまえの推測が正しいと思うよ。それにしても……彼はまだ十八歳だぞ。そんなひっ迫した状況の中で……よくそんな判断が出来たものだ。……ヒロシ君ってヤツは……まったく凄いな……」

 ふと界人が目頭を押さえた。

 感情を外に出さない界人には珍しい事だった。

「いい仲間が出来たと………思っていたのに」

「ああ……そうだな。おれはヒロシ君が好きだった。二十歳を過ぎれば、界人と三人で一晩中飲み明かせる―――そんな間柄になれると思っていたからな」

 そう言うぼくを見て、目を赤らめながら、界人は苦笑した。

「人と距離を置きたがるおまえにしては随分ずいぶんな入れ込みようだな。まあ、彼は良いヤツだったし、年齢に似合わず人間も出来ていた。おれやおまえでは到底とうてい及ばないくらい、ふところの広い男だったよ。―――おれも、ヒロシ君が好きだった。本当に残念だよ」

 

 ぼくと界人は、リビングで会話を弾ませている愛花に目をやった。

「気を付けてやらないとな、園宮さんのこと」

「分かっている」


 ぼくや界人でさえ彼をしのぶと心が苦しくなるんだ。

 彼がってからまだ二ヶ月ほど ――― 一見平静を保っている愛花が、ふとした瞬間に、闇に落ちても不思議ではないのだ。

 それを支えているのが、愛花のお腹に宿したヒロシの忘れ形見だった。


「お腹の子が育っているあいだ、園宮さんは頑張れると思うけど、だからと言って油断しないでおこうな。どんなことが切っ掛けになるか分からないけど、いきなり深く心が落ち込む瞬間が訪れるかもしれない。それにもし、お腹の子供がダメになんかなったら、彼女はもう立ち直れないと思うんだ」

「分かっている。おれは出来る限り愛花に寄りそっていたい。そう思ってはいるが、おれだけでは力不足だ。すまないが、界人も ――― それに琴美も力を貸して欲しい」

「なに言ってる」

 と界人は少し眉をひそめた。

「水臭い言い方するなよ。おれたちを頼れよ、もっと」

「ありがとう、界人」

「だから、それはいらないって。おれも琴美も、を、かけがえのない仲間と思っているんだから。むしろ身近で寄り添っている大輔に、ありがとうってこちらが感謝したいくらいだ」

「ああ……そう…だよな。仲間なんだよな…おれたち」

 界人の熱い言葉に、ぼくは目頭を押さえてしまった。




 七月に入ると、水沢たちが率いる須浜学園野球部の地区予選大会が始まった。

 試合があるごとに、愛花はヒロシの遺影を持って球場に出向いていた。

 休日であればぼくも同行で来るのだが、白石花音が中心になって、愛花をサポートして球場までの道中を気遣ってくれていた。

 もちろん就職した白石も平日は抜ける事が出来ないので、大学進学のOBや、在校生の野球部マネージャーたちが実行役をになっていた。


 最初、愛花のサポートはOB・白石の命令的な物ではないかと心配していたが、後輩たちは自主的に動いていたようだ。

『亡くなった恋人の彼氏を一人で産んで育てる』

 その愛花の行動に、心の純粋な少年・少女達は大いなる感銘かんめいを受けたようだ。


「すごく気を使ってくれるんです。ありがたいんだけど、却って疲れちゃいます」

 と愛花は当惑気味だった。

「まあ、そう言うなよ。愛花は人から気遣われるより、気遣う方だからな。その気持ちは分かるよ。でも、ここは素直に受け入れたらいいと思う」

「そうですね」

 愛花は、あまり目立たないお腹をさすりながら頷いた。



 七月下旬に入った頃、地区予選大会の決勝が行われた。

 日曜日だったのでぼくも観戦に来ていた。

 橘と、それに界人と琴美も一緒だった。

 決勝の相手は滝沢第二高校。去年と同一カードだった。

 滝沢第二高校側スタンドには、弟・順平の遺影を持った近江誠也がいた。


 どちらも打力評価Aに対して、投手力評価はBだった。乱打戦が予想されていたが、案に反してどちらも六回まで無失点に抑えていた。

 だがそこまでだった。

 不安を抱えた両軍の投手陣が七回から撃ち込まれ始めた。


 そして、五対五の同点で迎えた九回裏の須浜学園の攻撃で、ここまでノーヒットだった水沢が、場外超えの特大アーチで試合を制した。

 

「ヒロシ、水沢君たちが甲子園、決めたよ」

 麦わら帽子を深めにかぶった愛花がそうつぶやいた。


 ぼくたちはそのまま帰ろうと球場の階段を下りようとしたが、白石花音と水沢たち須浜学園野球部が、一列になってぼくたちを待ち構えていた。

 ぼくは立ち止まり戸惑っていたが、彼らが何をしたいのか愛花には分っていた。

 愛花は彼らの前に立つと、ヒロシの遺影を部員たちに向けた。


「礼!」

 水沢の号令で部員たちは深く頭を下げた。

「ありがとうございました!」

 水沢たちの熱い雄叫びは、真夏の空の中にひびき渡るようだった。

(彼らの声、キミにも届いたかな)

 ぼくはまばゆい空を見上げた。

 同じ事を思っていたのだろう。

 愛花は麦わら帽子をかたむけ、ちゅうに目線を向けていた。

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