第69話 ほどけゆく心





 県立病院を出ると、ぼくと愛花は彼女の家に戻った。

 桃子さんの今日のシフトは夕方だから、まだ家にいる筈だった。

 愛花が玄関のドアを開けると、リビングから桃子さんが飛び出して来た。

 すごく心配しているのが分かった。


(ちゃんと話せるのか?)

 ぼくが視線を送ると愛花は頷いた。

「お母さん、話があるの。聞いてくれる?」

「どうしたの?」

 桃子さんは不安と嬉しさが入り混じったような複雑な笑みを浮かべた。


「わたし妊娠しているの」

 前置きもなくいきなりそう告げた。

 桃子さんはその場で固まってしまった。

「愛花ごめんね。良く聞こえなかったわ。今、何て言ったの?」

「ヒロシの子供がお腹の中にいるの」

「…………!」

 桃子さんは口を開けたが、声も出せない様子だった。


 目を見開き、何を言っていいのか分からない、そんな顔をする桃子さんに愛花は言葉を続けた。

「わたしはその事実をお母さんに話したかっだけなのよ。相談とかは一切するつもりなんてないの。わたし、産むって決めているから。どうしても中絶させようと言うのなら、わたし生きていけない ――― わたしもこの子と一緒に死ぬからね」

 愛花は肩で息をするほど興奮し、一気にまくし立てた。


 桃子さんはしばらく、その場でじっと立ち尽くしていた。

 愛花を見つめる桃子さんの目にも、桃子さんを見つめる愛花の目にも、涙が浮かんでいた。

『絶対反対される』

 その覚悟を以て愛花は桃子さんに挑んでいた。


 だが、先に涙をこぼした桃子さんが、足を踏み出し、その勢いのまま愛花を抱きしめた。

「お母さん……?」

 とがめられると思っていた。

 思ってもみない桃子さんの行動に、愛花も、そしてぼくも戸惑ってしまった。

「愛する人が死んで……とても、とても、辛かったでしょうね。それなのに、母親として、なんにもしてあげられなくて、本当にごめんね」

「お母さん……」

 愛花も涙をこぼした。

「反対じゃ……ないの?」

「なに言ってるの。高校生の時にあなたを身ごもったわたしに、反対なんて出来るわけないじゃないの。好きな人の子供を身ごもって、両親から堕ろしなさいと迫られた時の辛さは、わたしが一番よく知っているわ」

「お母さん……!」

「妊娠が分かった時、わたしは後悔なんて一切しなかった。あなたを生んだ今も、わたしは間違っていなかったと思っているわ。こんなにきれいで優しい娘が生まれたんだもの。あなたを生んだことも……今まで一度たりとも、後悔なんてしてないわ。産まれて来てくれて、ありがとう……愛花」

「お母さん……。ああ……ごめんなさい」

 愛花はあふれ出る感情が抑えられず、声を上げて泣き出した。

「お母さんのこと避けていてごめんなさい……お父さんが死んだ責任を全部押し付けたりしてごめんなさい……。許して……お母さん……!」

 愛花は泣き崩れ、その場に膝を落とした。


 雨降って地固まる―――とは正にこの事だ。

 予想外の展開だった。

 わだかまりをかかえていた二人が、炎天下の氷のように、僅かな時間で溶けようとしていた。

 こんな展開が待っていたなんて、誰が予想しただろうか。


(キミがこの二人を導いてくれたのかい?)

 爽やかに笑うヒロシの顔が脳裏をよぎった。

 そして―――。

 

 ――― まなかを ―――


 ヒロシがのこしたメッセージの意味を、たった今、ぼくは理解できたような気がした。

(キミが気に掛けていたのは、きっとこのことだったんだね)


 マイナーリーグの開幕戦前夜に帰国したヒロシと愛花は、ようやく恋人の関係を持ったのだ。

 ヒロシは真面目で責任感の強い男だ。

 愛花と愛し合うに当たって、その先の事も見据えた上で、行為に及んだはずだ。

『愛花を幸せにする。おれは愛花と結婚するんだ』

 きっとそんな風に誓ったんだろう。

 しかしその思いは、何の前触れもなく、突然砕かれてしまった………。


 受け入れがたい、目前に迫る死の恐怖の中、

『おれはもう助からない』

 と悟らざるを得ない中で、

『あの時の行為で、もし愛花が妊娠していたら、どうする?』

 何も出来ない己の無力さをなげきながらも、それでもヒロシは、今できる事は何かと必死になって考えたに違いない。

 それがぼくに宛てたダイイングメッセージなんだ。


 もし妊娠していたら『わたしはこの子を産んで育てる』愛花がそう言いだす事ぐらい、ヒロシは分かっていたのだ。

 だから、あのダイイングメッセージは、

『愛花が出産を決意した時、力になってください。どうか愛花のことを頼みます』

 そのような思いを伝えたかったんだと思った。

 だが時間はない。

 そんな長文を打つなどないのだ。

『頼みます。これで分かってください』

 それが万感の思いを込めた、たった四文字のメッセージの正体ではなかったのか……。


 ――― まなかを ―――


 和解して抱き合う桃子さんと愛花の姿 ――― そして解明されたヒロシの絶唱が一気にぼくの胸の中をかき乱した。

 止めることも出来ず、ぼくはポロポロと涙をこぼしていた。


「大輔さん……」

 愛花がぼくの右側から抱き付くと、

「春木さん」

 と桃子さんまでぼくの左肩に寄り添った。


「ありがとうございます、春木さん。いつもいつも、わたしたち親娘おやこに寄り添ってくださって……。あなたには本当に感謝してもしきれません…」

「大輔さん、本当にありがとうございます。まだまだ悲しくて辛いけど、わたし頑張って生きて行きます。この子を……ヒロシの忘れ形見を、大切に育てていきます……」

 桃子さんと愛花は口々にそう言った。


 ぼくは涙を拭うと、カバンの中のスマホを取り出した。

 今が、愛花にヒロシのダイイングメッセージを見せる、絶好のタイミングだと思った。

「愛花に見せたいものがある」

 ぼくはそう言うとヒロシのでダイイングメッセージを見せた。

 最初は何を見せられているのか分からなかった愛花だが、メッセージの日時にちじに気付いた時、驚いた顔でぼくを見た。


「もしかして、これって、ヒロシの死の直前のメッセージなんですか?」

「そうだ」

「えっ? ……最期のメッセージなら……なんで、わたしに…」

 愛花が引きつりそうな顔になった。

「愛花、落ち着いて聞いてくれるかい?」

 ぼくの問いかけに愛花は静かに頷いた。

「ヒロシ君だって本当はそうしたかったはずだ」

 とぼくは言った。

「でも彼は、愛花のためを考え、わずかしかないタイムリミットの中で、おれにダイイングメッセージを送る判断をしたんだ」


 そこから、界人たちと交わした推理・考察を、出来るだけ事細かく愛花に説明した。

 愛花は嗚咽おえつを繰り返しながらも、しっかりと頷き、最後まで話に耳を傾けていた。


「話を進めているうちに、界人も琴美も、おれにダイイングメッセージを送るに至った決定的な何かが不足していることに気が付いたんだ」

「どういうことですか?」

「界人や琴美―――それにおれだって、愛花のために尽力することぐらいヒロシ君だって分かっていたはずなんだよ。それなのに、えておれに、メッセージを送らないといけない、何らかの事情があったんじゃないかっておれたちは考えたんだよ。―――今までそれが何なのか分からなった。だけど、ようやく今、謎が解明されたんだよ」


 聡明そうめいな愛花はすぐに気づいた様子だった。

 自分のお腹に目を落として再び泣き出した。

 もう、これ以上の説明は必要なかった。


「愛花」

 とぼくは愛花の肩に手を置いた。

「おれが全面的にバックアップする。だからおれを頼れ」

「大輔さん……そんなの悪いわ……大輔さんだって、ようやく歩き出せたばかりなのに……」

「おれだけじゃない。きっと界人や琴美も協力してくれるさ。それに、愛花のお母さんもね」

 ぼくが桃子さんに視線を送ると、彼女はしっかり頷いて見せた。


「もちろんです。愛する娘のためなら、いくらでもこの身を削る覚悟はあります」

「お母さん……ありがとう」

 愛花は再び桃子さんに抱き付いた。

「わたしこれからいい娘になるね。今までつらく当たっていた分、親孝行するからね」

「何を言ってるの。あなたはずっとわたしを助けてくれていたじゃないの。そのお陰でわたしは生きて来れたわ。あの人を亡くしたあと、前を向いて歩けたのは、愛花と隆二がいたからなのよ。本当にありがとう」

「お母さん……」

「一緒に育てていこうね」

「はい。ありがとう、お母さん」

「当たり前でしょ? だってこの子はわたしのま……」

 と言い掛けて桃子さんは言葉を止めた。

 桃子さんは何かに気付いたように驚いたような顔を見せた。


 それを察した愛花が悪戯いたずらな微笑みを浮かべた。

「よろしくね、お婆ちゃん」

「エ――! わたし三十代でお婆ちゃんって呼ばれるの? それひどくない?」

「わたしが初めて『お母さん』って呼んだ時、お母さんは十代だったでしょ? それを考えたら三十代のお婆ちゃんって、アリじゃないの? ウフフフ、よろしくね、お婆ちゃん」

「もお、愛花ったら……」

 頬をふくらませながらも、桃子さんは|まんざら嫌でもない顔をしていた。

 もつれていた糸がほどけて行く、そんな瞬間だった。

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