第68話 ヒロシが遺したもの





 県立病院に入った時、十二時を少し回っていた。

「受付は十二時までなんですよ」

 受付嬢が渋る顔を見せると、

「受付してあげて。五分くらいは融通ゆうずう利かせてあげなきゃ」 

 そう言ってくれた看護師さんがいた。

 如月陽菜きさらぎひなさんだった。

「如月さん、ありがとうございます」

 ぼくが頭を下げると、如月さんは青白い顔色をした愛花を見た。

「そんなことはいいの。愛花ちゃん、どうかしたんですか?」

「ぼくもよく分からないんです。最近少し立ちくらみする時があるようなんです。食欲不振とか胸のむかつきなんかも訴えています」


「だいじょうぶですよ。大輔さんは大げさなんだから」

 愛花は力なくそう言ったが、如月さんは険しい顔をした。

「どう見たって、だいじょうぶじゃないでしょう? とにかく総合内科でお手続きさせていただきます。二階の総合内科に連絡を入れて置きますので、その窓口で受け付けてください」

 如月さんは迅速に対応してくれた。

 

 総合内科で受付を済ませると、愛花はすぐに診察室に呼ばれた。

 どうやら如月さんの配慮があったようだ。

 ぼくが受付前の長いすで待っていると、意外に早く診察室から愛花が出て来た。


 診察室から出て来た愛花は、茫然ぼうぜんとした様子だった。

「どうだった?」

「はい。産婦人科に行くよう言われました」

「えっ!」

 静かなロビーにぼくの声が鳴り響いた。

 ぼくは慌てて周囲の人に頭を下げた。


「わたし……帰りたい」

「いや、それはダメだろ」

「他の男の人に体を見せたくないんです」

「………」

 それを言われるとぼくは何も言えなかった。


「それに関しては問題ありませんよ」

 とぼく達の話を聞いていた総合内科窓口の事務員さんが声を掛けて来た。

「今年から配属になった新人の女医さんが、園宮さんの担当となりますから」

 笑顔でそう言った。

「産婦人科は三階にあります。左に見える階段を上がったら、そのまま直進して、突き当りまで進んだら、そこが産婦人科です」

「はい。ありがとうございます」

 と言ってぼくは愛花を促し、産婦人科に向かった。


 愛花は無言だったし、ぼくも事態を飲み込めてなかった。――― 呑み込めていなかったというのは嘘だ。

 限りなく可能性の高い推測 ――― いや、確信と呼んでもいいだろう ――― 愛花はお腹に子供を宿しているのだ。

 そしてその相手は間違いなくヒロシだ。


「桃子さんに連絡した方が…」

「やめてください」

 ぼくの言葉に愛花は目を吊り上げてそう言った。 

 ぼくは次にどういう言葉を掛けていいのか分からなかった。

 互いに言葉もないまま産婦人科の前に来た。

 受付を済ませると、ここでも二・三分の待ち時間で診察室に通された。


 ぼくは待合室で待っていた。

 だが、十分ほどして診察室に呼ばれた。

「えっ? 男のぼくもですか?」

「当然じゃないですか」

 咎めるような受付嬢の言い方だった。

(おれが相手の男だと思っているのか)

 そう思ったが、ここで言い争うつもりはなく、素直に診察室に入った。

「失礼します」

 と入るなり、

「あら、春木君じゃないの」

 と名を呼ばれ、ぼくはびっくりした。

 白衣を着た女医さん見て、ぼくはもう一度驚いた。

粟飯原あいはらさん! お医者さんになられていたんですね」

「ええ、まだ新米だけどね」

 と粟飯原真奈美まなみさんは明らかに分かる作り笑いを浮かべた。

「こんな形で再会するとは思わなかったわね。春木君、ちゃんと責任は取るつもりでいるのかしら?」

「えっ? あの……」


 ぼくがしどろもどろすると、隣りのベットに横たわっていた愛花が、

「ち、違うんです」

 と起き上がった。

「この子の父親は大輔さ……、春木さんじゃないんです。具合が悪くなった時、たまたまいた春木君に、連れて来てもらったんです」

「そうなの?」

 粟飯原さんは問い詰めるようにぼくを見た。

「ぼくと愛花は親しい友人だけど、そんな関係ではありませんよ。彼女は大学の後輩で、今アンビシャスでバイトしています」

 アンビシャスという言葉に粟飯原さんは表情を変えた。

「そういうことなのね。ゲスな考えが浮かんでごめんなさいね。あなたが無責任なことするわけないものね」

 と言って、今度は本当の笑みを見せてくれた。


「あの……」

 愛花がぼくと粟飯原さんを見比べた。

「お二人は知り会いなんですか?」

「ええ、そうよ。わたしが大学四年生の時、彼が新入生で入って来たの。わたしは医学部だから普通だったら繋がりはなかったんだけど、わたしも峰山君が起業したアンビシャスの講師をやっていたの。つまり、アンビシャスの元仲間、といったところかしら」

 そう言った後で、粟飯原さんは医者の顔に戻り、カルテに目を通した。

「総合内科の診断を見ても、どこも異常はないわね。―――園宮さんは現在妊娠二ヶ月です。普通は性交一ヶ月で体の異変を感じるものなのよ。ここに至るまでに異常は感じなかったの?」

「いえ、感じてはいましたが……」

 と愛花は言葉を濁した。


 二ヶ月前と言えば、マイナーリーグ開幕前にヒロシが一度帰国していた時である。

 そして妊娠一ヶ月の時期にヒロシが事故で死んだ。

 体の異常は感じていただろう。

 だけど、その時の愛花に、それを感じ取る余裕などなかったはずだ。

 愛花にヒロシの死を語らせるのはこくな話だ。


「愛花。おれが話していいか?」

 ぼくの問いかけに愛花は頷いた。

「実は、愛花のお腹の子の父親は、すでにこの世にいないんです」

 ぼくの言葉に粟飯原さんは目を大きく見開いた。

 その後、ぼくは端的に、状況を説明した。


「そうなの……」

 粟飯原さんは視線を落としただけで、余分なコメントはしなかった。

「それで、園宮さんは、どうしたいの?」

「産みます」

 間髪入れずに答えた。


「そう」

 と粟飯原さんはフゥーと小さく吐息した。

「あなたの気持ちは分かるわ。でも、大変なことよ」

「理解しているつもりです」

「一時的な感情で決めていいことではないのよ」

「先生は、堕胎することを推奨しているのですか?」


 愛花は速いストレートをど真ん中に投げ込んだ。

 粟飯原さんは、予想もしなかった真っ向勝負に、見送り三振をしたような顔を見せたが、すぐ切り返した。


「確かに、医者としての立場上 ――― 特に産婦人科医としては新しい命の尊厳そんげんについては守るべき立場にあるわ」

 でもね、と粟飯原さんは言った。

「あなたが立ち行かなくなったら、生まれてくる子供の尊厳も何もなくなってしまうの。母親がつぶれてしまった乳飲ちのみ子が、その先どうやって一人で生きて行けるの? 結果的に母子ともども不幸な人生を歩むことになってしまうかもしれないのよ。そうなる可能性がある場合を考慮して、中絶という手段が合法化されているのよ。赤ちゃんには可哀そうな決断だけど、母親だけでも助けたい―――そんな苦渋くじゅうの決断の末の施術せじゅつが妊娠中絶なの」

「逆です」

 と愛花は言った。

「わたしは愛する人の遺したものが欲しいんです。わたしは今、これから先、どう生きていいのか分かりません。正直言って、毎日ずっと、愛する人のもとについて行きたい……その思いから離れた日はありません。お腹にいるこの子は、愛する人が ――― ヒロシがわたしに残してくれた大切な形見なんです。この子を死なせてしまったら、わたしは……わたしは……生きてはいけません!」

 愛花は強い思いを眼球に込め、粟飯原さんをにらむように見つめた。


 しばらく睨み合いが続いた。

 やがて、

「分かったわ」

 と粟飯原さんは視線を外して苦笑いを浮かべた。

「園宮さんは十八歳だったわね」

「はい」

「ご両親の許可は必要ないけど、だからと言って黙って出産するなんてことはしないでね。しっかりと話し合って、親御おやごさんを納得させた上で出産に望んでください。分かりましたね」

「……はい」

 と愛花は力なく返事をした。


 粟飯原さんは賢い人だ。そんな愛花の態度に何かを感じた事だろう。

「あなた、子供を育てながら大学には通うつもりなんでしょ?」

「はい」

「それならなおのこと、親御さんの協力は欠かせないわ。あなたにしか分からない事情というものがあるのかもしれないけれど、それって、あなたのお腹の子供よりも大切なことなのかしら? その辺りのこと、よく考えておくように」

「はい。善処ぜんしょいたします」

「覚悟は出来ているみたいね」

 愛花の真っ直ぐな目を見て、粟飯原さんは頷いた。

「分かったわ。出産に向けてわたしも全力で取り組むわ」

 そう言うと粟飯原さんは愛花の両手を握った。

「頑張るのよ。いいわね」

「はい。この子のために……いえ、わたし自身のために、ヒロシがくれたこの命を大切に守っていきたいと思います」


 粟飯原さんはようやく愛花に笑みを見せた。

 そしてぼくに目を向けると、少し戸惑ったように、

昂輝こうき……いえ、峰山君は元気にしてる?」

 と聞いた。

「相変わらず明るくて元気ですよ。あの人は出会った頃から何ひとつ変わりませんよ」

「そう。元気ならよかった」

 粟飯原さんは一瞬だけ遠くを見るような目をした後、思い直したようにぼくをもう一度見た。

「峰山君にも相談したらいいわ。彼は面倒見めんどうみがいいから、力になってくれるはずよ。春木君も園宮さんのこと出来るだけ力になってあげてね」

「もちろん、そのつもりです」


 ぼくは隣りに坐る愛花を見た。

 さっきまで青白かった愛花の顔に、ちょっとだけ赤味が差していた。

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