第67話 ヒロシの欠片





 彩香の月命日が二日後だったので、ぼくと愛花は市営墓地に来ていた。

 本当は明日の日曜日に来る予定だったが、外の空気を吸わせたい思いもあり、愛花を連れ出したのだ。

 そしてここは、ヒロシの永眠の地でもあった。

 愛花の希望もあって、先に彩香の墓石に手を合わせ、その後ヒロシの墓石に向かった。

 彩香の墓石に近いところに、ヒロシのお墓もあった。


 姉・アリサからヒロシの死因などは聞いていた。

 胸部圧迫による心臓破裂ということだ。

 いびつへこんだ胸部を除けば、顔には傷ひとつない五体満足な体だったと話してくれた。


 ヒロシの墓石に立ち、手を合わせた。

(マイナーリーグで順調な滑り出しを見せ、これからだと言う時に……)

 爽やかに笑うヒロシの顔が目蓋まぶたに浮かび、目頭が熱くなった。

 そんなぼくの隣りで、愛花は白い顔で虚ろな目を墓石に向けていた。


 ――― まなかを ―――


 ヒロシのダイイングメッセージが脳裏をよぎった。

 愛する人を残して逝かなければいけなかったヒロシの心に触れると、今更のように、ぼくの胸は激しく揺れた。

(彩香……おまえもきっと……そんな思いをかかえていたんだろうな……)


 しかもヒロシの場合は、何の準備もない、突然の出来事だったのだ。

 そんな絶望と悲しみの中で、死を自覚して数分で残さなければならなかったメッセージ―………。

 ヒロシがぼくに伝えたかった詳細は、まだ分からない。

 だけど、彼がぼくに願ったものが何なのか、それだけは明確だった。


 ぼくはもう一度、やつれた愛花の横顔を見た。

(このはおれが守ってみせる。約束するよ、ヒロシ君)

 心にそう誓い、再びヒロシの墓石に手を合わせた。


 その時、敷石を踏みつける音がジャリジャリと近づき、ぼく達のかたわらまで来ると音が止まった。


 ぼくと愛花は同時に音が止まった方を見た。

 墓花はかはなを持ったヒロシの姉・アリサがそこにいた。

 愛花は少しおびえたような顔を見せた後、アリサに会釈えしゃくした。

「大輔さん、行きましょうか」

 とその場を離れようとした。


「愛花ちゃん待って」

 アリサが愛花を呼び止めた。

 愛花はアリサに背中を向けたままだった。

「すみません。勝手にお参りしたりして…」

「ごめんなさい!」

 アリサは突然、愛花の後姿に深く頭を下げた。

 愛花は驚いた顔でアリサを振り返った。


「愛花ちゃん本当にごめんなさい。わたしの両親はあなたにとてもひどいことをしました。本当にごめんなさい」

 愛花はアリサの前に進み出た。

「アリサさん、やめてください」

 と愛花はアリサの肩に手を置いて体を起こそうとした。

「アリサさんはわたしに良くしてくれたじゃないですか。アリサさんが謝ることなんて何もありません」

「いえ、あるわ。わたしもあの時、心神喪失していたと思うの。お父さんたちの愛花ちゃんへのひどい扱いに、何も感じられなかったわ。そういう意味では、わたしも共犯なのよ。本当にごめんなさい」

 アリサは再度頭を下げたが、愛花からの返事はなかった。

 見ると、愛花はポロポロと涙を流していた。


「あれ……?」

 愛花の方がびっくりしていた。

「わたし泣くつもりなんてなかったのに……どうして……」

 目尻を拭いながら、

「あれ? とまらない……おかしいわ」

 あふれ出る涙が止まらないでいた。


(愛花……)

 抱き止めてやりたかった。

 しかし、アリサの目の前でそれをしてはいけなかった。

「愛花ちゃん……ゴメンね」

 その役目をアリサがになってくれてた。

「愛花ちゃんも辛いのに、わたしたち自分のことしか考えられなかった。本当にごめんなさい……」

「いえ、わたしこそ……ごめんなさい。わたしがマイナーリーグを勧めなければ……ヒロシはこんなことにならなかったんです……。わたしの方こそ、ごめんなさい」

「愛花ちゃん……」


 五月下旬の新緑の風の中、抱き合う二人を見ながら、

(少しは、愛花の心のわだかまりが解けたらいいな……)

 ぼくはそう願った。

 何が立ち直る切っ掛けとなるかは分からない。

 なんだっていい。


 ぼくやその仲間たちの出来ることは微々びびたるものだ。

 仕事の合間のメッセージや、対面の時間は、ごく限られている。

 この先も生きて行きたいと思える何かを、愛花自身が見つけないと、ぼく達の知らない所で、死神のいざないに愛花が乗ってしまったら、もうどうしようもなかった。



「ねえ、大輔さん」

 アリサと別れ、墓地を後にする時、愛花が口を開いた。愛花が何かおねだりする時の口調だった。

「お腹でも空いたか? おごるよ」

 ぼくの言葉に、愛花は首を横に振った。

「最近食欲もないし、胸がつかえるの。それに立ちくらみなんかも時々……」

「だいじょうぶなのか?」

「問題ありません。ちょっと疲れているだけです。それより―――」

 と愛花は言葉を続けた。

「海が見たいの」

「海?」

 意外だった。

「いいよ。どこに行きたい?」

「県立病院の近くの海岸がいい。ダメですか?」

「ダメなわけないだろ? おれにとっては思い入れのある場所だけど、愛花はそこでいいのか?」

「はい。海が見たいだけですから」

「わかった。今から行こうか」

「ありがとうございます」

 ここから県立病院の近くの海岸は比較的近い。

 五月下旬の午前は、日差しが少し強くても、風はまだ涼しかった。

 ぼくと愛花は、市営墓地から徒歩二十分ほどの海岸まで、歩いて行く事にした。



 海岸に着くと潮の香りがした。

「やっぱり海はいいなあ」

 ぼくが息を吸い込むと愛花が笑った。

「海の生物の腐敗臭がしますね」

「アハハハ…憶えていたのか? この前のヤツ」

「忘れませんよ。忘れられるわけないじゃないですか……ちょっとショックだったし」

「悪かったよ。潮風のイメージを壊してしまって」

「ううん。いいんです。むしろ今はその香りを感じていたい―――て言うのが正直な気持ちなんです」

 ぼくは愛花の顔を覗き込んだ。

 彼女の言いたい事が分からなかった。ぼくは愛花の言葉の続きを待った。


「海って、すべての海に繋がっているんですよね」

「ああ」

「目の前にある瀬戸内海も、その先にある太平洋と繋がり、そしてロサンゼルスの………ヒロシが命を落とした海に、繋がっているのね……」

「そうだよ……」

「海の生物の腐敗臭の中に……ほんの少し……数ミクロンでもいい………ヒロシの匂いを届けてくれるのなら……わたしはそれをすくい集めたい……」

 海を見つめる愛花の横顔を涙のしずくが流れた。

「ヒロシを愛した証が……何か欲しい……それがあれば、わたしは生きて行ける……。形ある何かがあれば………わたしはこの先を生きていける気がするの……」

 そう言って愛花はぼくに濡れた瞳を向けた。

「大輔さんなら、わたしのこの気持ち……分かってくれますよね」

「分かるよ、愛花の気持ち。自分の身が削られるくらい、分かり過ぎるくらい分かるよ」


 彩香の欠片を探し求めていた、一年前の記憶がよみがえった。

 時が過ぎ、少しは落ち着いたように見えるが、ふとした瞬間、どうしようもない寂しさに襲われる時がある。

 そんな時ぼくは、一年前と同じように、彩香の欠片をどこかに探してしまうのだ。


 最期を看取る事が出来たぼくでさえ、彩香を独りで旅立たせてしまった事への罪悪感を、拭い切れないでいるのだ。

 ヒロシが遺体となって浅い海の中から救出されたのは、墜落から六時間が過ぎた頃だったらしい。

 異国の地で、親しい人に看取られる事なく、命を落としてしまったヒロシを思う愛花の気持ちを考えた時、ぼくには悲しすぎて、苦しすぎて、想像すら出来なかった。

 彩香との永遠の別れが、もしそれだったら、今日こんにちこの場で立っているぼくは、きっといなかっただろう。


 愛花は今、ぼくでは耐えられない苦しみの中にいるのだ。生きているだけでも愛花は凄いと思った。

 ぼくはヒロシの欠片の一つになるかもしれない物を持っている。

(だけど……)

 これを今、愛花に見せていいのかどうか迷っていた。

 ヒロシのダイイングメッセージを見せる事で愛花が前向きになれるのならそれでいい。

 だが、もし逆の作用を引き起こしたら………。

 それを考えると躊躇ちゅうちょせざるを得なかった。

 吉と出るか凶と出るか―――なんて博打ばくちは打てない。

 負の作用は許されないのだ。絶対に。



 正午近くになる頃、

「ランチでも食べようか」

 とぼくと愛花は海岸に背を向けた。

 しかし、愛花の足取りがおかしかった。

 わずかだが体が左右に揺れていたのだ。


「愛花、だいじょうぶか?」

「は、はい。だいじょうぶです……」

 と言いながらも愛花はぼくの体に寄りかかった。

「おい、普通じゃないだろ? 我慢しなくていい、すぐそこの県立病院に入ろう」

「待って、わたしだいじょうぶです。少しふらつきがあるだけですから」

「それって普通じゃないだろう? とにかく病院だ」

「待って…だいじょうぶです」

「ダメだ。行くんだ。おまえにまで何かあったら、おれはどうしていいのか分からなくなる。頼むから、言うこと聞いてくれ」

 ぼくが怒気を込めて言うと、愛花は不承不承ながら頷いて見せた。

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