第66話 おれが傍にいるから





 ヒロシの葬儀が終わると、愛花は大学にも通い、アンビシャスのバイトにも精を出していた。

 いつもの生活をいとなんでいる。

 一見、何事もないようにも見えた。

 愛花は人の気持ちの分かる、思いやりあふれた女の子だから、みんなの心配を払拭するよう、元気に振舞っているようだ。


 そんな愛花を見てぼくの胸は痛んだ。

 愛花は今、辛くて苦しくて悲しくて、これからの事なんて考えられるはずなんてないんだ。

 そんな愛花がいつもと変わらない日常を歩んでいる事に、ぼくはかえって危機感を覚えずにはいられなかった。


(愛花……だいじょうぶだろうか……)

 明るく振舞っている、その心に潜む闇の怖さを、ぼくは知っている。

 突如現れる、死神のいざないに背中を押された時―――その時そばに彼女を守ってくれる者がいなかったら………。

 いつやって来るともしれない魔の瞬間に、自覚のない愛花よりも、むしろぼくの方が怯えていた。


 とは言っても、ぼくも愛花に付きっ切りではいられない。むしろ離れている時間の方が遥かに長いのだ。

 だからと言ってメールや通話を鬼伝するような迷惑行為をするわけも行かず、程々ほどほどにメッセージを送る事しか出来なかった。


 ぼくに出来る事は、

「今晩ご飯でも食べないか?」

 と仕事帰りに愛花を誘うくらいだった。

 桃子さんの帰りが遅く、愛花のバイトがない時は、隆二もセットで夕飯に誘うようにしていた。

 愛花に気が乗らない素振りを感じる時もあったが、分かっていても重い腰を上げさせていた。

 とにかく人と人と繋がりを絶やしたくなかった。

 そんな思いもあって、夕食会には他にも人を呼ぶようにしていた。

 橘が一緒の時もあれば、界人と琴美、そして白石と水沢の時もあった。



 ヒロシの葬儀から三週間ほどたった頃だった。

「昨日からお姉ちゃんが部屋から出て来ないんです」

 と愛花の弟・隆二からの着信があった。

「愛花は無事なのか?」

「はい。問いかけには応えています」

 昨日は金曜日だ。

 隆二はぼくに気を使って土曜になる今日まで待っていたのだろう。


 ぼくは早朝から愛花の家を訪れた。

 玄関に入ると隆二が出迎えた。

「春木先生、すみません。せっかくのお休みなのに」

「だいじょうぶだよ。それより……」

 と言い掛けた時、

「もう出て行ってよ! お母さんになんかわたしの気持ちなんて分からないんだから!」

 二階から愛花の怒鳴り声が聞こえた。


 ぼくは驚いて隆二の顔を見た。

 しかし彼は、驚きもせず、困った顔で溜息ためいきを吐いた。

 信じ難い事だが、どうやら愛花と桃子さんの間では、珍しい事ではないようだ。


 間もなく泣きながら階段を下りてくる桃子さんと目が合った。

「春木さん……!」

 桃子さんはぼくを見て慌てて涙を拭った。

「来てくれていたんですね。あは……恥ずかしいところを見られましたね」

「ああ……いえ……そのぉ……」

 コミュニケーションスキルの低いぼくは、こんな時の処世術を知らない。真面まともな対応も出来ず、口をつぐんでしまった。


「隆ちゃん」

 桃子さんが隆二を一瞥いちべつすると、彼は一階にある自室に入って行った。


 そして、

「愛花はね、心の底でわたしのことを憎んでいるんです」

 今降りてきた階段を見上げながら、桃子さんはそう言った。

「愛花自身は自覚してないかもしれません。あの子はいつもわたしのことを気遣ってくれて、遅く帰るわたしに負担をかけないよう、家事全般をこなしてくれています」

「それはお母さんを大切に思っているからじゃないんですか?」

「はい。ですから愛花に自覚はないんです。あの時 ――― 主人が病気で亡くなった時から、愛花はわたしに笑いかけて来なくなりました。口には出しませんが、心の底では、わたしが主人を見殺しにしたと思っているようです」


 愛花の父は自分がこしらえた借金返済のため、家族に類が及ばないよう、嫌がる桃子さんを説得して、離婚届に印を押させたと、愛花の口からそう聞いている。

「でもそれは桃子さんが望んだことじゃなかったし、愛花だって状況は十分理解していましたよ」

「ええ……理解はしていました。でもね、理性で理解しても、感情は別物なんですよ。あの子にとってわたしは、お父さんを見殺しにした人間以外の何物でもないんです」

「………」

「わたしは今でも忘れられないんです。離婚届に判をついた時、愛花はわたしの傍でずっと、わたしの顔を見ていました。何も語らず、白い目でわたしを見上げていました。怖いくらいに感情のない眼差しでわたしを見据えていました。―――多分その時から、わたしは愛花にとって、母親ではなくなっていたのかもしれません」

 そう言った後、桃子さんは顔を上げて、笑顔を作ってぼくを見た。

「でもね、春木さんと出会ってから、あの娘随分ずいぶん変わったんですよ。以前よりも話し掛けてくれるようになりましたし、笑いかけてくれるようにもなりました」

 だけど、と桃子さんは言葉を続けた。

「ヒロシ君が死んでから、あの娘、また以前の愛花に戻ってしまったんです。わたし……どうしたらいいのかしら……」

 桃子さんは両手で顔をおおった。


「二階に上がっていいですか?」

 ぼくの問いに桃子さんは頷いて見せた。

 階段を上がり切ったすぐそこにある愛花の部屋のふすま引き戸の前に立った。


「愛花、おれだ。春木だ」

 しばらく間があって、

「大輔…さん」

 涙声の愛花の声が返って来た。

 ぼくは今、愛花の部屋の前にいる。

 だけどぼくは、どんな言葉を掛けていいのか分からなかった。


 動けないでいると、間もなく愛花の部屋の引き戸がスーッとスライドした。

「入ってください」

 泣き濡れた瞳の愛花が立っていた。


 愛花の後をついて部屋に入ると、愛花はベッドにもたれ掛かるよう、畳の上に座り込んだ。

 ぼくは愛花と少し距離を開けて、畳の上に座った。

 すると、視線を落としていた愛花がふいに顔を上げ、ポロポロと涙をこぼした。

「大輔さん……ごめんなさい…ごめんなさい…わたし、ひどい人間でした。本当にごめんなさい……」

 突然の事にぼくは驚いた。

「なんであやまるんだ? おれは愛花に助けてもらってばかりいたんだよ。感謝することは山ほどあっても、あやまられるいわれはないよ」


 ぼくがそう言うと愛花は激しく首を横に振った。

「わたし……大輔さんの気持ちを理解しているつもりでいました。わたしはお父さんを失いました……。だからわたしは、彩香さんを失った大輔さんの気持ちに、寄り添えるつもりでいました」

 でも……と愛花は声を詰まらせながら話を続けた。

「お父さんが死んだ瞬間は絶望しかなかった。だけど日が経つにつれ、わたしはお父さんの分まで生きて行こう―――お父さんに笑顔で暮らしているわたしを見せてあげよう―――お父さんに恥じない生き方をしよう―― そう思えるようになってきたんです。だからヒロシを失ったこの苦しみや絶望は、頑張っていれば、お父さんの時と同じように思い出に出来るかもしれないと思ったわ。でも……でも……違った」


「愛花……」

 震えるその肩にぼくは手を置いた。

「無理に話さなくていいよ」

 と声を掛けたが、愛花の耳には届かなかったようだ。


「愛する人は違うの! この胸を締め付けるような苦しみも、明日が見えない絶望も……全然治まってくれないのよぉ……! 日が増すにつれ、深く深く胸に突き刺さって、どんなにもがいても抜けないし、離れてもくれないのよぉ! 本当にごめんなさい。―――大輔さんもこんな気持ちを抱えていたんですね。わたし全然知らなかった……。それなのに、立ち上がってくださいとか、前を向いて歩いて下さいとか、勝手なことばかり言って……本当にごめんなさい! ――― 愛する人がいなくなって、こんなに辛くて苦しいのに……こんなの……立ち上がれるわけないわ……前を向いて歩けるわけないじゃないの……。わたしは酷い人間でした ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 わあ―――と大声を上げると愛花は声を上げて泣き崩れた。


「愛花……」

 ぼくには愛花の背中をさするしか出来なかった。


 愛花はいつ会っても、ごく普通だった。

 それがよそおいであるのは承知している。

 そこに怖さを感じながらも、ヒロシの通夜の後で、ぼくの胸で号泣ごうきゅうした事で、ため込んでいた物を少しは吐き出せたのではないかという安心感が、わずかに生まれていた。

(だけど……)

 愛花の苦しみは更に蓄積されていたのだ。

 一年前、彩香が死んで一ヶ月が過ぎた頃を思い起こせば、容易にさっする事が出来たはすだ。

(うかつだった……)


 だからと言って後悔に沈んではいられなかった。

 ぼくは不器用だ。

 スマートな口説くどき文句なんて持ち合わせていない。

 それでもぼくは愛花に言わなくちゃならない事があった。


「愛花は全然ひどい人間じゃないよ」

 ぼくは力強く愛花の両肩を握った。

「おれは愛花に助けられたと思っている。今おれがこうして生きていられるのは『立ち上がってください』『前を向いて下さい』と言って愛花がおれの傍にいてくれたからなんだよ」

「大輔さん……!」

 驚いたように見つめる愛花がいた。

「確かに、プレッシャーに感じていた時もあったよ。それでも愛花は、おれの傍にいてくれた。ずっと支えてくれていた。だからおれは救われたんだよ。これは修飾しゅうしょくでもお世辞でもない。おれの心からの言葉だ。だからおれは愛花に言いたいんだ。―――ありがとう、おれを助けてくれて。ありがとう、おれの傍にいてくれて」

 ぼくがそう言うと愛花は少し安らいだ顔を見せた。

「わたし、大輔さんの力になれていたんですね……」

「ああ」

 ぼくはしっかり頷いた。

「だから、今度はおれがお前を支えたい。おまえは嫌かもしれないし、うっとしいと思うかもしれない。それでもおれはおまえを傍で支えたいんだ。愛花が前を向けるようになるまで、おれはずっと支えたい。―――こんな頼りないおれじゃ、やっぱり嫌か?」

「ううん……うれしい……」

 言いながらまた泣きだした。


「明るく振舞ったり、無理に笑ったりしなくていいんだよ。笑えない時は笑わなくていいんだ。焦らなくていい、十歩進んで九歩下がってもいいから、ゆっくり進めばいいんだ。なぁ、愛花」

「……はい。ありがとう、大輔さん」

 愛花はぼくの右肩に頬を押し当てて嗚咽した。


 肩を震わす愛花を見下ろしながら、これで解決したとは思っていなかった。

 さっきぼくが口にしたように、十歩進めたと思っても九歩バックするのは覚悟の上だ。

(その時はおれが傍にいて支えればいい)

「たいじょうぶだ。だいじょうぶだよ。おれがいるから」

 そう言いながら、ぼくは少し強く愛花を抱きしめていた。

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