第60話 彩香の一周忌
三日後、マイナーリーグの
ヒロシの本拠地は、今ロサンゼルスなのだ。
そして、愛花の大学の始業とヒロシのマイナーデビューは、同じ四月七日だった。
昼休みのランチタイムだった。
テーブルを挟んで橘がいる。
「あ~あ、ヒロシ君の開幕戦、見たかったなぁ。
とぼくが
「果たしてそうかしら?」
「ん? どういうこと?」
「
と言いながら橘は自分のスマホをぼくに向けた。
「有料放送だけど、月十ドルだからそんなに高くないわ」
「それじゃヒロシの開幕戦は―――」
「見られるわ」
橘は親指を立てて見せた。
ぼくは時計を見た。
「今日は十時からのデーゲームだからそろそろ終わっているかな?」
そんなぼくを橘が笑った。
「春木君って、普段は優秀なのに、
「あっ」
「日本では四月七日の十二時でも、向こうは今、六日の二十時なのよ」
「それってつまり…」
「そうよ。ヒロシ君の開幕デビュー戦は、こちらの時間では、明日の午前二時ということね」
「そっかぁ……ネット配信と言っても夜中の二時はきついな。仕事に差しさわりが出る」
「あははは。春木君ってやっぱり天然ね。何のための十ドルも支払ってネット配信契約したと思ってるの?」
「……? ……あっそうか! ネットを通したオンデマンド配信があるんだ」
「ウフフフ。やっと気づいたのね。時間がある時にゆっくり見られるのよ。園宮さんも呼んで一緒に見ましょう」
「そうだね。ありがとう、橘」
「どういたしまして」
橘は優秀だ。
特に、
今は他部署にいるから、一緒に仕事をする機会はないが、研修時代の共同作業で、どれだけ橘に助けられたことか。
優秀なだけではない。
橘は思いやりがあって気配り上手だ。
本来彼女も、ぼくと同類で、人との係わりが得意な方ではないが、彼女はそのずば抜けた才覚で、対人折衝をこなしているに過ぎなかった。
そんな頑張り屋の橘の事を、ぼくは立派だと思ったし、好きだった。
そして……ぼくが次に共に歩む女性がいるとしたら、現状からして、橘しかいないと思う。
(だけど……)
ぼくの心は彩香を離れてはくれなかった。
一年が過ぎようとしていて、少しは彩香のいないこの世界になれたつもりでいたが、先日の彩香のビデオメッセージを目にした瞬間、ぼくの心は十ヶ月も前に
三歩進んで二歩下がる、どころではない。十歩進んで九歩下がった気分だった。
友達としての橘との関係はとても心地いい。
ぼくはこの関係を大切にしたかった。
だが、それと同時に、これ以上この関係を、発展させたくないとも思っていた。
ぼくには心の小部屋にいる彩香を、追い出すことは出来ない。
いや、正直に言おう。追い出したくないんだ。
橘にその事を話せば、彼女はきっと、
「立花さんのことは忘れないであげてね」
そう言ってくれるに違いない。
でもそれは、本音のようだが、本心ではない。
橘は一途な男に憧れているのだ。
そんな彼女が、心の底から彩香を歓迎するなんて事は有り得ないのだ。
いつの日かきっと、彩香を忘れられないぼくを、許せない日が来るに決まっている。
でもそれは、橘が悪いわけでも、ぼくが悪いわけでもない。
いや……いつまでもぬるま湯につかっているぼくの方が、悪いのかもしれない。
気付くと、橘は笑ってぼくを見つめていた。
「なにを一人で考え込んでいるの?」
こんな時の女の勘は鋭い。
「あ…いや…別に」
「ウフフフ、丸分かりよ。春木君って顔に出やすいもの。―――わたしね、交際を焦ってないのよ。とりあえず、五年は友達……親友のままでいいと思っているわ」
「でも、五年経っても変わらなかったら」
「次の五年も親友のままでいましょうよ」
「橘」
「わたしはね、春木君との何気ない時間が、とてもとても大切なの。正直なところ、春木君の恋人になれたなら死ぬほど嬉しいけど、それを焦るばかりに春木君を苦しめて、春木君との大切な関係までも壊すとしたら、そんなの元も子もないじゃない。
そう言って笑顔を見せる橘に対して、優柔不断なぼくは何も言葉が出なかった。
ヒロシの開幕戦は、七回を投げて十個の三振・三安打・無失点の白星デビューだった。
よほど嬉しかったのだろう。午前七時過ぎに、ヒロシからビデオメッセージが送られてきた。
ベンチ越しの映像は、チームメイトによる撮影のようで、十分くらいに編集したダイジェスト版だった。
相手打者のバットが空を切り、ジャッジがストライクアウトを宣告する場面がいくつも続いた。
まさにヒロシのいいとこ撮りと言った映像だった。
その直後だった。
『大輔さんところにも来ました? 朝っぱらからバカヒロシのマウント映像』
と愛花からの通話が来た。
呆れたような口調とは裏腹に、興奮を隠せない様子だった。
『頑張ってるじゃないか、彼。素直に喜んであげたらいいだろう?』
『そうなんですけど……。ごめんなさいね。大輔さんだって朝は忙しいのに変なことに付き合わせちゃって』
『アハハハ。別にいいよ。県庁までは近いから朝はわりとゆっくりできるんだよ。それより―――』
とぼくは橘が契約した地元テレビのオンデマンド配信の話をした。
『いつでも見れるから、近いうちにみんなで見ようよ』
『はい。ありがとうございます』
愛花はとても嬉しそうに返事をした。
四月二十九日。
彩香の一周忌が来た。
この日が国民の祝日である限り、ぼくは彩香の周忌に顔を出し続けるだろう。
界人をはじめ、彩香と親交の深かった十数名が呼ばれていた。その中にはもちろん愛花もいた。
『君の未来』中編が発表されて
本の評判は上々だった。
ネットの書き込みにも、賛否両論ある中、五千人を超えるレビューの平均評価は★四・五だった。
「愛花ちゃん。あなたの小説、かなりの評判ね。彩香の書き残した作品が日の目を見ることが出来て、とても嬉しいわ。彩香も喜んでいるはずよ」
瞳を赤くしながらそう言う彩香の母・京子に、愛花はとても恐縮していた。
「いえ、お礼を言うのはわたしの方です。彩香さんがわたしを推してくれたおかげで、思いがけず作家の道に進むことが出来ました。立花さんにも、彩香さんにも、感謝しかありません。ありがとうございます」
「それは愛花ちゃんの実力よ。運があってもそれをつかみ取る力がなければ、何ごとも叶えられないわ。愛花ちゃんにはそれがあったのよ。だからね、自信を持って『君の未来』後編を締めくくってちょうだいね。あなたの心のままに書いたらいいわ」
「はい」
愛花は、京子さんに一礼した後、彩香の遺影に深々と頭を下げた。
「園宮さん、すごいよ。発売一ヶ月で十万部を超えたんだってね」
界人がそう言った。
「読みたいんだけど、おれまだ買ってないんだよ」
「なんだよ、界人。冷たいヤツだな。仲間の書いた小説だよ。買ってやれよ」
とぼくは意地わるく突っ込む。
「買うつもりで何軒も本屋さんに寄ったんだけど、いずれも完売していたんだよ。ホントだよ」
「はいはい―――。知っていました。『君の未来』中編はどこに行っても売り切れ続出なんでね」
「おいおい、知っていてからかったのかよ」
「そうだよ。前編も完売してる書店もあるくらいなんだよ。おれ、知ってたもんね」
「ひどいな、大輔。なんか言い方に悪意を感じるよ」
界人が言いながら笑うと、ぼくも笑った。
「大輔さんって、梶山さんの前では、お道化たりふざけたり、素を見せますよね。他の人に見せないのに」
と愛花が突っ込みを入れて来た。
「今更、隠しようがない。なんせ中学の時からの付き合いだからな」
「腐れ縁ってやつですね」
「そうなんだろうな」
言いながらぼくは彩香の遺影に目を向けた。
中学の頃は、二人きりよりも、界人を混ぜた三人で出かける事が多かった。
あの時も、界人を
今日は、その役目を引き継ぐように、彩香の代わりに愛花がいた。
それをありがたいと思いながらも、心の奥底に広がる寂しさは、
「ところでさ」
と界人が言った。
「ヒロシ君、頑張っているみたいじゃないか」
開幕戦の試合は界人にも見せていた。
「ああ。六試合に先発登板して、ここまで四勝しているよ」
「四勝二敗ってことか?」
「いいや、ヒロシ君は1.45の防御率だ。橘がいたらもっと詳しい説明できるんだけど、ヒロシ君は打たれて降板したことはないんだ。投球回数に制限があって、それに達するのが六回から長くて八回らしいんだ」
「なるほど。つまり勝ち投手の権利を持った状態で、投球制限で降板したが、リリーフピッチャーが打たれた」
「そう言うことです」
と愛花が答えた。
「ヒロシはまだ、二点以上取られてないんですよ」
「マイナーリーグとは言えすごいな。日本に帰って来た時が楽しみだね」
「ところで界人君」
と京子さんが会話に入って来た。
「結婚したのね。おめでとうございます」
「はい、ありがとうございます」
「奥さんも来てくれたらよかったんだけど、彩香とは面識のない人だから、そうもいかないわね」
「いえ、そんなことはないんですよ。普段の琴美ならついて来たと思うんですが……琴美は今、つわりが酷くて横になっているんです」
「おい。初めて聞いたぞ。界人、妊娠したのか?」
「ばか。おれじゃない。琴美だ」
「ああ、そうか」
「三ヶ月だよ」
「三ヶ月?」
とぼくと愛花が同時に声を上げた。
「おまえ達の結婚式は二か月前だったよな」
「でへへへ。すでにできちゃってたみたい」
「界人似でないことを祈るよ」
ぼくが言うと、愛花がぼく手をつねって来た。
「いて」
「大輔さん、それ酷すぎです。きっと可愛い子供が生まれます」
「ジュニアオークってか?」
「クフッ………も、もぅ、大輔さんったら……クックックックッ……ごめんなさい……笑ってはいけないのに……、もう、大輔さんのせいよ……クフフフ……」
と笑いを堪える愛花を見ているうちに、京子さんが
彩香の一周忌は、申しわけないほど、明るい形で迎えてしまった。
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