第58話 ヒロシの帰国と入学式





「春木! おまえ小説家の立花彩香の彼氏だったんだって? おれだけ知らなかったぞ」

 四月第一土曜日にもよおされた、新入職員の歓迎会を兼ねた入庁式で、近江誠也がからんで来た。

「それだけじゃない。夏の地方予選の時、おまえの隣りにいた女子高生を、榊原宇宙ひろしの彼女って言っていたけど、あの娘って立花彩香の弟子だったんだってな。だから『君の未来』の続編を書いたんだな」

「まあ、そうだけど……」


(うざいなぁ……)

 と思いながらも、新人の歓迎会で、場の空気を濁したくなかったので、愛想笑いを浮かべた。

 さり気なくその場を去ろうと背中を向けるも、近江は背後からぼくの肩を掴んでなおも食い下がってくる。

「おれ読んだよ『君の未来』中編。すごく良かったぜ。前半と後半では文章表現が少し違うけど、人を想う気持ちと言うか、内面に寄り添う表現と言うか、そういったところは立花彩香と園宮愛花の感性が似かよっているから、全然違和感がなかったよ」

「そうなのか」

 彩香の事、そして愛花のことを褒められて悪い気はしなかった。

 ぼくは逃げる足を止めた。

「園宮愛花の筆力は、本家本元の立花彩香に全然劣っていないぜ。弟子だったからってだけじゃなかったんだな。園宮愛花が立花彩香の後を引き継いだ理由が、読んでみてよく分かった」


 君の未来・中編は五日前に発表されたばかりだった。

 表紙の著作欄には、原作・立花彩香。著者・立花彩香 園宮愛花と表記されていた。

 表紙カバーのそでには、彩香と愛花の写真入りプロフィールが表記されていて、愛花が立花彩香の弟子である事が特に強調されていた。


「立花彩香と園宮愛花 ――― どちらもメチャクチャ美人だな。榊原がうらやましいぜ。―――それとな、知ってるかもしれないけど、おれの弟も今、野球留学でAAダブルエーに在籍しているんだ」

「それはヒロシ君からチラっと聞いたよ」

 ぼくは無難な返事しかしなかった。

 ヒロシは最初から野球留学の道を選んだが、近江の弟・順平は、二軍の春季キャンプに合流したものの、力不足を指摘され、ヒロシの所属するAAダブルエーに急きょ野球留学する事になったらしい。


「明日さ、順平が一時帰国するんだよ。たしか榊原も一緒に帰って来るって言っていたぜ」

「ああ、聞いてるよ」

 と逃げようとしたが、

「だろ? それでさ、今度…」

 とぼくの前に立ちはだかった。


(いい加減にしてくれよ)

 とウンザリしている所に、

「あのぉ…」

 と数名の新卒の女子職員が、近江の傍に近付いた。

「近江さんって、去年の夏の甲子園でベストフォーに残った滝沢第二の近江順平君のお兄さんなんですよね」

「おお。順平のこと知っているのか!」

「はい」

「そうかそうか。おれ、そいつの兄貴な。何でも聞いてくれ」

 若い新人職員に言い寄られ、近江はだらしなく破顔はがんしていた。

 ぼくはこの好機を逃さなかった。

 隙を見て距離を取ると、港を見渡せる窓際のフリーテーブルに逃れ、ぼくはようやくひと息ついた。


「大変だったね」

 そこへ両手に飲み物を持った橘がやって来た。

「アイスレモンティだけど、よかったらどうぞ」

「ありがとう。ここからだとドリンクバーは遠いから助かるよ」

「そう。よかったわ」

 ぼくは橘から飲み物を受け取った。

「わたしは迷惑かな?」

「いいや、橘は問題ないよ」

 と言いながら橘がいた企画部・総合政策課のテーブルに目をやると、他部署も含む数人の男子職員が、苦々しい顔で、こちらをうかがい見ていた。

 橘は苦笑して見せた。

 彼女は彼女でウザがらみから逃げて来たようだ。


「橘も大変だな。大丈夫か?」

「平気よ。それにそんなに深刻なことじゃないわ。悪い人たちじゃないのよ、あの人たち。近江君と同じで」

「そうかもな」

 と多くは語らず、苦笑いを浮かべるだけにとどめた。


「読んだわよ『君の未来』中編。ネタバレになるから感想は言わないでおくね。春木君はまだ…なんでしょ?」

「まあな」

 とだけ答えた。


「それより明日、榊原君が帰国するのよね。迎えに行くの?」

「いいや」

 とぼくは首を横に振った。

「久しぶりに恋人と再会するんだ。二人きりにさせてあげないと」

「そうね」

 と橘は小さく頷いた。

「それに、明日だったよね、国立大学の入学式は。園宮さん、いよいよ大学生になるのね」

「ああ」

「行くの?」

「えっ? どこに?」

「大学の入学式よ」

「まさか」

 とぼくは笑った。

「おれの顔は愛花の父親似だけど、お父さんじゃないからな。愛花のお母さんが来るだろうし、もしかしたらヒロシ君が、帰国の足で来るかもしれないからね」

 ぼくが言うと、橘は笑った。

「ウフフフフ……普通、大学の入学式に、学生でもない彼氏が付いて来る?」

「アハハハ。確かにないよな」

「春木君って、時々ネタでもないのに、笑えること言ってくるよね」

「そうかい?」

「そうよ。天然なとこあるわ」

 そう言って橘はまた笑った。


 橘とのこういった距離感は嫌いじゃない。

 それは彼女も理解しているのであろう、近くには寄って来るが、決してあと一歩、踏み込んでこない。

 橘の気持ちを知るぼくとしては、申しわけないと思いつつ、ホッとしている部分でもあった。


「ヒロシ君、更にたくましくなっているでしょうね。会ってみたいな」

 そう言う橘に、

「見るかい?」

 とヒロシから送られてくるLINE画像を見せた。

 マイナーリーグのキャンプでの、チームメイト達との触れ合いを中心とした画像が、ぼくのスマホにはたくさん収められていた。

 写真の中のヒロシはいつも輪の真ん中にいて、チームメイト達の目線は、少なかれ彼の方に向いているのが分かった。

(海を渡っても、彼は輪の中心にいるんだな)

 そう印象付ける写真がばかりだった。

 

「うわあ、ヒロシ君くろだわ。―――みんなとも打ち解け合って、とても楽しそうね」

「だよな。チームメイトとも上手くやれているみたいで安心してるんだよ。その日あったことなんか、コメント付きで、ほぼ毎日送って来る」

「意外とマメな性格なのね」

「ヒロシ君かい? 彼はおおらかだけど、性格は繊細せんさい几帳面きちょうめんだよ。それにとても思いやりに富んだ青年だ」

 そう言いながら、ぼくはヒロシの爽やかな笑顔を思い浮かべた。


(愛花が待っているんだよ。早く帰って来いよ)

 ヒロシと愛花が、仲睦まじく手を取り合って歩く姿が目に浮かぶようだった。 




 翌日は珍しくヒロシからのLINEメッセージがなかった。

(そりゃそうだ)

 早朝の便で帰国して、今頃は、愛花と一月振りの再会を楽しんでいる事だろう。

 そして四日後には再びアメリカへ旅立ち、マイナーリーグデビューを果たすのだ。

 今度はペナントレースが終了する十月までは、戦力外通告されない限り、帰国は許されない。

 そんな束の間の休息だ。

 ぼくに出来るのは、そっと二人を見守る事くらいだった。


 愛花からもメッセージは来ないだろう。

(久しぶりにやるか)

 ぼくは部屋の片づけと掃除をする事にした。


 正午を回って間もなくだった。

 一通り片付いていた。

(そろそろご飯でも食べに行くか)

 と出かける準備をしていた所に、ピンポンが鳴った。


「は~い」

 玄関を開けると、真っ黒に日焼けしたヒロシが、紺色のスーツを着た愛花を連れていた。

「春木さん、お久しぶりです」

 と相変わらずの爽やかな笑顔で迎えてくれた。

「おお、久しぶりだな。なんかたくましくなったね。調子はどうだい?」

 かなりいい出来だと聞いていた。

「ありがとうございます。頑張った甲斐あって開幕投手を任されることになりました。AAダブルエーですけどね」

「いや、立派なもんだよ」

 と言ってから、今度は愛花を見た。

「ランチに行こうと思うんだけど、入学式はこれからかい?」

「いいえ。わたしは午前の部だったので終わりました。ご飯食べに行きましょうよ」

 大学の学生は高校とは違って桁違いに多いから、午前と午後の二部に分けて行う大学も少なくなかった。


「いいのかい?」

 とぼくは言った。

「二人の貴重な時間におれみたいなお邪魔虫が入っても」

「いいに決まってます。お邪魔虫だなんて言わないでください」

 とヒロシが言った。

「春木さんとはいっぱい話したいことがあるんです。三人で出かけましょうよ」

「ね、行きましょう。大輔さん」

 と愛花に手を取られて玄関を出た。


 紺色のスーツの愛花がぼくの隣りに立った時、思い出した事があった。

 (あっ……このスーツ、確か…)

 愛花が着ている紺色のスーツは、五年前の入学式で彩香が着ていたものだった。

 彩香の思い出の品々が大切にされていると思うと、嬉しくて泣けてきそうだった。

「大輔さん? どうかしました?」

「なんでもない。腹減ったからたくさん食うぞ。行くぞ」

 とぼくは先に立って歩きだした。

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