第26話 三歩進んで 二歩下がる





 倒れたぼくの上に看護師さんが乗っかっていた。

「後追いなんて、何を考えているんですか!」

 看護師さんはぼくの腰を抱きとめた状態で叫んだ。

「こんなことして立花さんが喜ぶと思っているんですか!」

「え?」

 ぼくが驚いた顔をすると、看護師さんも、

「えっ?」

 と声を出して、互いにしばらく固まっていた。


 早朝とは言え、それなりに散歩やランナーなどはいた。

 何事かと集まりだしたので、ぼく達は慌てて立ち上がった。


「あっ、大丈夫です。何でもありません」

「すみません、お騒がせしました」

 と二人して何でもないアピールをしたので、人の動きは通常のものに戻った。


「海に飛び込もうとしていたんじゃ…」

「していません……とは言い切れないかな……」

 とぼくは完全否定は出来なかった。

 看護師さんは溜息を吐いてぼくを睨んだ。

「夜勤が終わって病院を出た所だったのです。埠頭ふとうに向かう春木さんに気付いて、何気なく見ていたら、フラフラとした感じで岸壁の真際に向かっていくもんだから、てっきり―――」

 と言葉を切る看護師さんは、興奮した様子で少し赤みがかった目をぼくに向けた。

「で、どっちなんですか? 飛び込むつもりだったんですか? それともわたしの早とちり?」

「いや、それが、分からないんです。どうしたかったのか、本当に自分でも分からないんです」

「そうですか……でも、普通の状態でなかったのは間違いなさそうですね」

「はい……」

 それだけは否定できなかった。


「わたしは如月きさらぎ陽菜ひなと言います」

 と看護師さん―――如月さんは今更のように自己紹介した。

 毎日顔を合わせていたというのに、その人の名前を初めて知った。

「ぼくは春木―――」

「大輔さんですよ―――最初はわたしも気付かなかったんですけど、立花さんがお亡くなりになってから、わたしの息子から春木さんのことを聞いたんです」

「息子さん……?」

「ええ。わたしの息子の名前は慎吾 ――― 如月慎吾と言います」

(如月慎吾!)

 ようやく如月さんの話が見えて来た。

 如月慎吾はつい最近までアンビシャスで勉強を教えていた五人の生徒の一人だった。


「如月さんは慎吾のお母さんだったんですね」

 ぼくは改めて如月さんの顔を見た。

 如月さんは初めて笑みを見せた。

「はい。その節は息子がお世話になりました。おかげさまで進学校に入ることが出来ました」

 と如月さんはお辞儀をした。

「わたしの職業柄、組まれたシフトは中々変更できないんです。ですから、集まりにも出席する機会がないまま、お礼を告げることが出来ずに心苦しく思っていました。 ――― 本当にありがとうございました」

「ああ……いえ、ぼくも新生活の費用を稼がせてもらいましたから、お礼だなんて一方的なことではなく、ウインウインの関係だったと思います」

「そう言っていただけると助かります。ああ、それと―――」

 と如月さんは話を続けた。

「園宮さんの弟さんも春木さんの教え子だったんですね。それも後になって知ったんですけど」

「ええ。受け持った子供たち全員が志望校に合格して、ホッとしていますよ」


 その後会話が途絶えた。

 普段なら気まずくなる所だが、今のぼくからはそういった感情が欠落していた。

 港を行き来する大小様々さまざまな船舶をただ眺めていた。

 そんなぼくの隣りで、如月さんは何も言わずに海に目を向けていた。


 そして、

「この港町、わたしは好きですよ」

 独り言のように如月さんはつぶやいた。

「この町に暮らして、辛いことや悲しいことが一杯あった……。それでもわたしはこの港町が好きなんです」


 ぼくは如月さんの横顔を眺めた。

 如月さんもぼくを見た。


「春木さんは水前寺清子って歌手知っていますか?」

「はいっ?」

 方向違いの質問をされ、ぼくは上ずった声を出してしまった。

「ごめんなさい、突然変な質問をして」

 と如月さんは苦笑いを浮かべた。

「日本の歌を『歌謡曲』と呼んでいた昭和の歌手で、わたしのおばあちゃんが家事をしながら、その人の歌をよく歌っていたんですよ」

 と言った後で、小さな声で歌詞を口ずさんだ。



    しあわせは歩いてこない


    だから歩いてゆくんだね


    一日一歩 三日で三歩


    三歩進んで 二歩下がる


「これ『三百六十五歩のマーチ』って歌なんです。知っていますか?」

「ええ……はっきりとは記憶してませんが、なんとなく聞き覚えがあるように思います」

「歌い手も音楽も元気いっぱいの曲なんですよね、これ。でもね、この歌詞の中で、子供の頃ずっと疑問だった部分があるんです」

「どんなところがですか?」

「三日かけて三歩進んだのに、なんで二歩下がる必要があるのだろう。そんなの勿体ない。戻るくらいなら動かないで休憩した方がいいんじゃないか―――なんてね」

「なんか、それ分かりますよ」


「わたしね、五年前に主人を自動車事故で亡くしたんです」

 と如月さんは唐突にそう言った。

 何となくではあるが、如月さんがシングルマザーの様な気はしていた。

「大好きな主人が亡くなったその瞬間、わたしは二人の子供のシングルマザーになってしまいました」

 如月さんには、慎吾の下に三つ離れた娘がいると話した。


「主人は兄弟で経営する住宅設備の自営業を営んでいましたから、時間的融通ゆうずうが利くので、参観日とか学校行事なんかは、だいたい主人が参加してくれたので、わたしは仕事に専念することが出来たのです。だけどこれからは、すべてわたしが一人でこなさなくてはならなくなったんです」

 如月さんはまるで他人事のように淡々と話しを続けていた。

「主人が死んで辛くて悲しくて、もう、どうしていいか分からなくなっているのに、親としては二人の子供のために、立ち止まってはいられなかったんです。―――泣いてはいけない、笑うんだ。振り返ってはいけない、前に進め。―――そんな感じでがむしゃらに頑張っていたのです」


 そんな、自分を追い詰めるだけの日々が続いたある日、如月さんは突然と言った形で、全ての気力を失ってしまったと話した。


「何が原因なのか……どういった切っ掛けがあったのか、今でも分からないんですが……いつもと変わらないつもりで病院内を歩いていると、いきなり『わたし、もうダメだ。前に進めない』と強く思ってしまったんです」


 如月さんは勤務中にも関わらすが、病院を飛び出すと、海の方に走り出し、この岸壁から海面を見下ろしていたと言う。


「この突堤に立って海を見ながら……このまま飛び込んだら、楽になるのかな……なんて誘いが聞こえて来るようでした。―――ああ、わたし、ここで死ぬんだ――― 本気でそう思いました」


 如月さんは、黒い魔物に導かれるまま足を一歩前に出そうとした時、何処からか突然『三百六十五歩のマーチ』が流れて来たのだと言った。


「ハッとして振り返ると、少し離れた遊歩道を走る自転車のラジオから、その曲が流れて来たんです」



    しあわせは歩いてこない


    だから歩いてゆくんだね


    一日一歩 三日で三歩


    三歩進んで 二歩下がる



「目からうろこが落ちたとは、まさにこのことだと思いました。子供の頃には分からなかった、この歌の歌詞に込められた深い意味を、わたしはその時初めて理解できた気がしたんです」


 如月さんは、ご主人を亡くしてからずっと、全てを一人で抱え込み、前を歩かないといけないという、強迫観念めいたものに取り込まれていたのだろう。


「前に進まないといけない。立ち止まったり、後ろを振り返ってはダメだって、常に自分に言い聞かせていたけど、わたしは限界に来ていたみたいなんですね。だけど、その歌詞にある『三歩進んで 二歩下がる』は、動けない時は止まったらいい。後戻りしたい時はしたらいい。元気が出たらまた歩き出せばいいんだ。――― 死んだおばあちゃんがわたしに、そう語り掛けて来るような感じがして、わたしこの岸壁に立って大声出して泣いちゃったんですよ」


 如月さんは曇天の下のダーククレイの海に視線を落とした。

「その時からわたしは、振り返りたくなったら主人を思い出して思いっきり沈み込んだり、泣いたり―――もう、負の感情をあからさまに出すようにしたんです。もちろん所構ところかまわずではないですよ。泣きたい時はここに来るの。ここがわたしの泣き場所なんです」

 と足元を指差した。


「わたしはこれからも毎日一歩ずつ前に進みますよ。だけど時々、二歩下がることもあります。大好きだった人のことを思い出して泣くのは、わたしの特権なんですから」

 と如月さんは海を見たまま微笑んだ。

「春木さん。あなたも我慢がまんしなくていいんですよ。潰れそうな時は逃げちゃえばいいんです。思いっきり泣いちゃえばいいんです」

 ぼくを見る如月さんの目は少し潤んでいた。


「一度、トコトン立花さんとの思い出を振り返ってみてください。―――辛くなるかもしれません。苦しくなるかもしれません。それでも、彼女と過ごした大切な時は、立花さんにとっても、春木さんにとっても、かけがえのないものなのですから」

 そう言うと如月さんはそっとぼくを抱きしめてくれた。

「あなたが抱える喪失感はとても図り切れないものだと思うわ。無理に立ち上がらなくていいのよ。だけど、自ら命を絶つのはダメよ。あなたがいなくなったら、あなたが今感じている喪失感を、あなたの親い人に与えると言うことだけは、忘れないでください」

「………はい」

「三歩進んだら二歩下がってもいいんだから」

「………はい」


 その時、曇天の雲に出来た隙間すきまから光が差した。

 海面を照らす一筋の光が航行する貨物船を照射しょうしゃした。


『アスカだわ』

 そう言って、豪華客船を指差したあの日の彩香が、そばにいるような気がした。

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