第25話 かりそめの日々





 彩香が旅立ってから二週間が流れた。

 あれからぼくは、現実感のない日常を送っていた。

 研修で毎日顔を合わせる立花美幸や関関同立の四人の前では、

「おはよう」

「お昼にしようか」

「ありがとう」

「それじゃまた明日」

 日々の挨拶あいさつや社交辞令の中に、必要以上に笑顔を作って見せていた。

 最初、仲間に変な気遣いをさせたくない思いから始めた行為がだったが、その思いは次第にゆがんだ方向に向かっていった。


(本当のおれの心内こころうちなんて、おまえたちは分かってないんだろ?)

 やがて自分に接してくる者をうとましく思うようになっていた。

(同情なんて真っ平だ)

 ましてや、かりそめの優しさなんてウンザリだったし、彼らの全ての好意が、取って付けた物に見えて来た。


 たとえば「わたしのど乾いたからジュース買って来るね。春木君は何がいい?」なんて周囲に聞こえよがしの行動は、わたし優しいアピールにしか感じられないようになっていた。


 笑う事も泣く事も出来ないでいた。

 そんな中でつくろう笑顔に限界が来ていたのかもしれない。

(疲れたな……)

 肉体の疲れではない。

 心が疲弊ひへいしていた。

 毎日が辛いと感じていた。


 それでも、周りに対しては表面的に取りつくろっていたつもりだった。

 だけど、ぼくの心の内は見え見えだったのかもしれない。

 六月に入る頃には、職場の仲間が、ぼくと距離を取り始めている事に気が付いた。



「春木君、ちょっといい?」

 そんな中で、唯一同じ距離を保ってくれている橘美幸に、ある時呼び出された。

 ランチタイムだったので、県庁のレストランで向かい合わせに座った。

「あのね、春木君……」

 と橘は遠慮気味に何かを言い掛けて、言葉を飲み込みうつむいた。


「はっきり言ってくれていいよ」

 とぼくは続きをうながした。

「分かったわ」

 と橘は顔を上げた。

「春木君は、多分無意識じゃないかと思うの。普段は穏やかで常に笑みを浮かべているけど、時々ね……」

「なに?」

「うん。たまにだけどね……『バカヤロウ』か『チクショウ』なんて言葉が脈絡みゃくらくなく出て来るの」

「本当か?」

 橘は小さく頷いた。

「大声とかじゃないわ。だけど、これくらいの距離なら十分に聞こえるくらいの声量で」


 今、ぼくと橘の間には1・5メートル程の距離がある。

「春木君の事情を知る同期や先輩方も、最初は仕方がないかと大目に見てくれていたのよ。でも、日が経つにつれ、その頻度が増してきて……。だからみんな、少し近寄りがたいみたいなの……」

 と橘は口ごもった。


「ああ、そうだな。変な独り言を発していたら、誰でも気味悪いもな。ハハハ……」

 ぼくは自嘲気味に笑った。

「そんなつもりじゃ……」

「いいんだよ、橘」

 とぼくは笑った。

「話し辛いこと言わせてしまってゴメンな」

 それだけ告げると、何か言いたげな橘に背中を向けた。


 気付かなかった。

 確かに、彩香が死んだ直後は、ふいにそんな言葉が飛び出して来る自覚はあった。

 だけど、最近はそんな事を口走っている意識も自覚もなかった。

(おれ、壊れ始めているのかな……)

 漠然ばくぜんとそんな風に感じた。



 帰宅すると、愛花が待っていた。

「園宮は受験生なんだから、おれに気を使うなよ。アンビシャスのバイトもあるしさ」

 と言い続けているのだが、愛花にはいつも笑顔でかわされる。

「わたしの家よりも春木さんのアパートの方がアンビシャスに近いから問題ないですよ。それじゃ晩御飯の用意しますね」

 そう言って部屋に上がり込むのだ。


「園宮。おれが定時で帰って来られるのは六月一杯だぞ」

「知ってますよ。つまり今月は大丈夫なんでしょ?」

「そうだけど」

「ならいいじゃないですか? 七月からの事はその時に考えます」

「いや、そういうのじゃなくて」

「今夜は野菜炒めとブリ大根です」

 愛花はあざとく笑顔を見せるとキッチンに立った。


 愛花はほぼ毎日、こうしてぼくの夕食を作りに来る。

 そして自分も一緒に食べてからアンビシャスのバイトに向かうのだ。

「せめて食費くらい払わせてくれよ」

 ぼくはそう言うのだが、愛花は受け取らなかった。

「賞味期限が切れたスーパーの廃棄食材だからタダなんです」

 

 どうやらこの一件には相良も絡んでいるようだ。

「一日くらい賞味期限が切れていたって問題ありませんよ」

 愛花のそんな飾らないところは嫌いじゃなかった。

 もっとも、ぼくの家でも賞味期が二・三日限切れた食材を使用するのは当たり前だったから。


 ともあれ、ぼくは橘美幸に今日言われた事が気になっていた。

 愛花の手料理を平らげた後、

「おれ、最近独り言とか言ってる?」

 と聞いた。

 愛花は背中を向けて洗い物をしていた。

 少し間があって「うん」と愛花は頷いた。


「どんなこと言ってる?」

「………バカヤロウとか、チクショウとか……」

「それってやっぱり、脈絡のないタイミングで言ったりしてる?」

 ぼくが尋ねると愛花は蛇口の水を止めて振り返った。


「それ、誰かに指摘されましたか?」

「ああ、同僚にね。それに最近みんなから避けられてる。気味悪がられているみたいだ」

「ごめんなさい。わたしがちゃんと言ってあげてたら…」

「園宮は関係ないよ。それにおれには独り言の自覚がないから、指摘されたって治らなかったと思うよ」

「春木さん」

 と愛花は思い詰めた顔を向けた後、ぼくに抱き付いて来た。

「わたしは何があっても春木君を見限ったりしません。わたしだけは春木さんの味方です。だからわたしを頼ってください」

「園宮……」

 ぼくは両手を下ろしたままだった。

 愛花を抱きとめる事は出来なかった。

 

(このままではいけない)

 そう思った。

 ぼく自身の事ではない。

 ぼくが潰れるのは自己責任だ。

 だけどぼくの自己責任に、愛花を巻き込んではいけないと思った。

(おれがここにいてはいけない。このままでは園宮を不幸にする)

 そしてぼくは、気付いた。

 彩香はきっと、こんな思いでぼくに別れを告げたんだと。




 翌日の土曜日の朝。

 この時期らしいどんよりした空模様だった。

 ぼくは駅に向かい電車に乗り込んだ。

 行く当てなどなかった。

 何がしたいのか、自分でも分からなかった。


 彩香の墓参りは、花が枯れる暇もないほど何度も行った。

 だけど、そこに彩香の生きた証を感じる物はなかった。

 彩香が死んでからのぼくは、迷い子のよう、闇雲やみくもに彩香の欠片かけらを探していた。


(だけど……)

 見つける事は決してないだろう。

(あるわけないんだ……彩香の代わりなんて……)



 電車の窓から港が見えた。

 県立病院が見えた時、ぼくは無意識のうちに座席から立ち上がっていた。

 改札を出たぼくは、港近くの県立病院を素通りして、彩香を最後に連れ出した埠頭ふとうへと足を進めた。


 あの日とは違って、今にも泣きだしそうな梅雨空が広がっていた。

 ぼくは埠頭の先端に足を踏み出し海面を覗き込んだ。

 あの日もし、彩香がぼくの誘いに頷いていたら、ぼくはきっと彼女と共にこの海へ飛び込んだだろう。

 そうしていたら、こんな空っぽな心を抱えたまま生をむさぼる事もなったはずだ。

 ぼくは真下に海が見える所まで、更に一歩踏み出した。

 見下ろすと透明感のない海面が波打っている。

(暗くて不気味だな)

 晴れている時と曇天どんてんの今では海の印象がまるで違っていた。


 ぼくはまだ自分が何をしたいのか定まっていなかった。

 このまま生を貪り続けるか……。

 それとも……。



 と―――背後で誰かが駆けて来る靴音がした。

 女の人なのか。ハイヒールの音だ。

「ダメェ―――!」

「えっ?」

 悲鳴ともつかない女性の叫び声のあと、ぼくに振り返るひまはなかった。

 背後から抱き止められたぼくは、そのままうしろにひっくり返され、コンクリートの上に肘と膝を打ち付けていた。


「痛ったぁ―――! な、何するんですか?」

「何するんですかはこっちの台詞です! なにバカなこと考えているんですか!」

 女の人はぼくの腰を掴んだまま目を真っ赤んにして睨みつけていた。

「あ、あなたは―――」

 その女の人は県立病院で彩香を担当していた年配の看護師さんだった。

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