第23話 真っ白な心
翌日の四月二十九日。彩香は眠るように旅立った。
あの日、電話を受けたぼくは、
「婚約者が危篤なんです」
と上司に告げて早退の許可を得た。
病院に着くと酸素吸入器を装着した彩香が横たわっていた。
だけど、カウントダウンが始まったシビアな現実に、ぼくの心はまだついて来なかった。
呆然と立ち尽くすぼくを見て、彩香の両親は首を横に振った。
「大輔くん……」
と彩香の母親が
「もう十分なのよ。この子は今までよく頑張って来たと思うわ。特に、大輔くんに再会してからは、一日でも多くあなたに会いたいと……ここまで
彩香の母親は泣き崩れ、彩香の父親が寄り添った。
それからのぼくは、反応のない彩香の右手を、一晩中握っていた。
心拍・脈拍が弱くなっているのが、心拍数計測器でも目に見えて分かった。
そして、その時が来た。
朝日が昇る頃、うたた寝していたぼくの手を、一瞬だが彩香が握り返したのだ。
ぼくは反射的に立ち上がった。
「彩香……!」
ぼくは酸素吸入器を付けた彩香の顔を覗き込んだ。
しかし彩香の瞼は閉じられたままだった。
(彩香……!)
様子がおかしかった。
呼吸の動作が感じられなかった。
心拍数計測器も反応を示さなかった。
「すいません。下がってもらえますか」
担当医と看護師たちがぼくを押しのけ、慌ただしく動きだした。
「立花さん、しっかり」
「目を開けてください」
「聞こえていますか」
聴診器を胸にあてがい、彩香の目を開いて瞳孔を確認した後、担当医は静かに首を横に振った。
「お亡くなりになりました」
担当医の声が妙に病室に響いた。
ぼく達は不思議な静寂の中にいた。
ぼくは彩香を握っていた手を見つめた。
一瞬だったが、確かに彩香はぼくの手握り返して来た。
きっとそれは、物が言えない彩香の「さよなら」だったに違いない。
彩香の両親が号泣する中、ぼくはもう一度彩香の右手を握った。
まだ温かかった。
(彩香……)
ぼくは酸素吸入器を外した彩香の顔を覗き込んだ。
安らいだ表情をしていた。
(苦しかったんだろうな……辛かったんだろうな)
死んで楽になったと言うのか……。
胸が張り裂けそうだった。
(それなのに……)
彩香が生きている時には我慢できないくらい涙が
「彩香さん……!」
病室に入って来た愛花がその場で膝を落とした。彩香が大好きな白桃が床に転がった。
彩香の死を知らされないで来たようだ。
愛花の目がぼくを
「春木さん……彩香さんは……」
事態の把握がままならない愛花に、ぼくは小さく首を横に振って見せた。
「園宮……。たった今、彩香は旅立ったよ」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「そんなぁ………」
今まで彩香の前では見せなかった涙を、愛花は初めて見せた。
ぼくは転がった二つの白桃を拾うと、軽くふいて彩香の枕元に置いた。
「ありがとうな、園宮。彩香は心の底から感謝していたよ。―――おれも、園宮には本当に感謝しているよ」
愛花は激しく首を横に振った。
「春木さん……わたし……」
「何も言わなくていいよ。今はただ、彩香を
「彩香さん……!」
愛花は床に膝をついたまま号泣した。
翌日、通夜が執り行われた。
予想を上回る弔問客の数だった。
中学・高校・大学の同級生はそれほどの数ではないが、見覚えのない若い女性の弔問が、それを圧倒する数で押し寄せて来た。
葬祭場の近くにある二件のコンビニに、臨時駐車場を設もうける程だった。
「立花彩香は、若い女性から人気なんです」
と学生服の愛花が言った。
「ネットでも大々的に訃報が取り上げられているから、それを見て来る人も多いと思いますよ」
「ああ ――― そうだったな。彩香は有名な小説家だったんだ……」
別れを告げられた事で目が曇ってしまったとは言え、ぼくは自分のアホさ加減に今更ながら
彩香はもう有名作家だった。
誰かに枕営業する必要などなかったのだ。
「今頃気付いてどうすんだよ……」
「えっ?」
「いや、何でもない」
「春木さん」
「本当に何でもないんだ。気にしないでくれ」
「……はい」
愛花は何か言いた気だったが、黙っていた。
「あの、親族の方。ちょっとご相談があります―――」
混雑する中、葬儀屋の社員の声が飛んできた。
「あっ、はい!」
返事をしたのは愛花だった。
「春木さん、ちょっと行ってきますね」
「すまないな。いろいろと押し付けて」
「気にしないでください。―――ハ~イ、今行きます!」
と愛花は葬儀屋の方に走って行った。
喪主は彩香の父親だった。
だけど、一人娘を亡くした彩香の両親は失意の中にあり、色んな事を切り盛りできる状態ではなかった。
しかも予想を超える
代わりに動ける親族はいなかったので、愛花がそのサポートを買って出てくれたのだ。
「おれがやるよ」
とぼくも言ったが、愛花はぼくの心中を察して、
「わたしは喪主の経験あるので大丈夫です」
と色々と動いてくれていた。
協力者は愛花だけではなかった。
「春木さんおれにも何か手伝わせてください」
と榊原
他にも協力者はいた。
「受付や雑用はおれ達に任せてくれ」
弔問に訪れた梶山界人が、大谷と前田を連れて、そのままサポートに回ってくれた。
「春木、おれなんて言っていいのか分からんよ。おれに出来ることあったら言えよな」
「おまえと立花は、いつか結婚するんだろうと思っていたのに、残念だ。なんかあったらおれに相談しろよ。力になるからな」
大谷と前田は口々にそう言ってぼくを励まそうとしてくれた。
その気持ちは嬉しかったが、悪いけど、今のぼくの心には届かなかった。
「春木……大丈夫か?」
大谷と前田が傍を離れたタイミングで、親友の界人が口を開いた。
「大丈夫だ―――と言ったら嘘になるけど、おれは彩香と約束したんだ。前に見て生きて行くって」
「そうだな。立花は本当に優しくて思いやりがあったよな。何よりもおまえを一番に思っていたもんな」
「ああ」
「やっぱり立花は、中学の時から何ひとつ変わらない立花だったんだ」
「ああ」
中学から同じ学校だった界人には、事の
「いいか大輔。何かあったらおれを頼れよ。一人で抱え込むなよな」
「ありがとう、界人」
ぼくが微笑んで見せると、界人は怪訝な顔をした。
「なんか変だよ。やっぱりおまえが心配だ。毎日メールするから絶対に無視するなよ」
「分かっているよ」
ぼくは頷いて見せた。
翌日の告別式も大勢の弔問客が訪れていた。
友人や親せきは
告別式が終わり、彩香を乗せた霊柩車が葬祭場から出ようとすると、道一杯に広がった多くのファンが、別れを告げたり手を合わせたりしていた。
(彩香……。おまえの小説はこんなに多くの人に愛されていたんだな)
彩香の出版は三冊あるが、ぼくが読んだのは最初の文庫本だけだった。
二作目・三作は、闘病の最中、きっと苦しみながら執筆していたのだろう。ぼくにその姿を見せないで………。
ぼくと彩香の間には、彼女がぼくと距離を取り出した期間も含めて、三年の空白があった。
(残りの二冊を読めば、それを埋められるのだろうか……)
火葬場に到着した。
彩香の遺体が納められた焼却炉に、彩香の父が泣きながら点火スイッチを押すと、ぼく達は火葬場を後にした。
振り返ると、焼却炉の煙突から白い煙が上がっていた。
つい先ほどまで存在していた彩香の肉体が、空の彼方に消えてようとしていた。
(彩香……本当に……さよなら……なんだな)
心が
なのにぼくは泣けなかった。
空へ消えて行く白い煙のように、ぼくの心も真っ白になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます