第22話 心の片隅の小さな部屋





「おまえ付き合い悪いな」

 金曜日の研修後、同期の須藤成世すどうなるせがあからさまに嫌な顔を見せた。

「春木くんなんて放っておこうよ。国立大卒だから私大卒のわたしたちとは付き合えないのよ」

 御手洗慶みたらいけいも須藤に同調した。


 チームとなった同期は、毎週金曜日に親睦会と称した飲み会をもよおしていた。

 それに加えて、中日なかびの水曜日にはお茶会まであった。

 主催者は派手な事が好きな須藤だ。

 入庁して三週目になる。

 入庁当初とうしょの週は、ぼくも彼らに付き合っていたが、彩香と再会してからは、それらの誘いをすべて断っていた。

 そんなぼくの態度が、須藤は気に入らなかったようだ。


「そんな言い方よくないわ。春木君にだって都合があるのよ」

 と唯一かばってくれるのがたちばな美幸だ。


 ちなみに、波風修也なみかぜしゅうや一条未来いちじょうみらいは、どっちつかずの立場を取っていた。


 彩香と過ごす時間が今のぼくの優先事項だった。

 だけどぼくは、それを彼らに伝えなかった。

 そういった点でぼくにも落ち度はあるが、彩香の事を口外するのは、少し違うと思い黙っていた。


「春木君。事情があるなら、説明した方がいいと思うわ。話しにくいことだってあると思うけど」

 橘は物知り顔でそう言った。

「気に掛けてくれてあれがとう」

 ぼくにはそう答える以外のすべはなかった。



 ぼくは刻々と近付いているに怯えながら毎日を過ごしていた。

 彩香の容体は目に見えて悪くなっていた。

 ベッドから起き上がれない日が多くなっていたし、見舞いに行っても、寝顔を眺めるだけで、病院を後にする日も少なくなかった。

 日ごとに憔悴しょうすいを増す彩香を見るのは、胸が張り裂けそうなほど辛かった。

 不安と悲しみ………。

 ぼくの心の中は彩香への想いで一杯だった。


 そんな四月の最終の日曜日―――彩香は珍しくベッドの上で体を起こしていた。

「ねぇ……海が見たい……近くで……」

 と彩香は窓から海を見下ろしながら静かにつぶやいた。

 ぼくは傍にいる彩香の両親に目を向けた。

 二人とも頷き、

「お願い出来るかしら」

 と彩香の母親が言った。



 ぼくは車椅子に乗せた彩香を、埠頭ふとうの先端へ連れ出した。

 天気が良く日差しは暖かだったが、風は少し冷たいと感じた。

「寒くないか?」

「ううん。気持いい…くらいよ」

「それなら、いいけど」

(どんな会話をすればいいんだろう)

 話し出せば、涙がこぼれそうになる。

 悲しい顔など見せたくなかった。


(だけど……)

 いつ命が尽きるともしれない彩香の前で、どうして明るい話ができるだろうか。


「アスカだわ……」

 港を見ていた彩香が、ふいに口を開いた。

 力なく指差すその方向に、豪華客船が威風堂々と優雅な船体を見せつけていた。

「なんか……旅行に来ている……みたいね」

 彩香が微笑んだ。

 そのやつれた笑顔がいたたまれず、ぼくは我慢しなきゃいけない涙をこぼしてしまった。


「ゴメン…おれ…」

 ぼくは車椅子の上が彩香を抱きしめた。

(泣いちゃいけない……!)

 苦しくて悲しいのは彩香の方なんだ。

 だけとぼくの体の震えは止まらなかった。

 嗚咽しながら、ただ彩香を抱きしめる事しか出来なかった。


「大ちゃん……」

 と彩香の手がぼくの頭を撫ぜた。

「わたし……今日は……歯磨き……しているのよ」


 ぼくは彩香の顔を見つめた。

 彩香が目を閉じた。

 ぼくはハンカチで顔を拭くと、彩香と唇を重ねた。


 遠くで汽笛が鳴った。

 しばらくの律動りつどうのち、ぼく達は唇を離して目を開けた。

 彩香の瞳が濡れていた。

 手が震えていた。

 もう直ぐその命が尽きようとしているのだ。

 怖くないはずはなかった。

 だけど彩香はそれを口にしなかった。

 自分が泣けばぼくが苦しむと知っているからだ。

 そんな彩香の気遣いが、ぼくには辛く悲しかった。


「彩香……。おれも一緒に行こうか」

「………!」

 彩香は大きく目を開いてぼくを見た。

「この埠頭の下って結構深いんだよ」

「大ちゃん……」

「おれは彩香と結婚したかったんだ。この世が無理なら、あの世で一緒になりたい……。おまえを…一人で逝かせたくないよ……」


 怖くなかった。

 今なら何だってできる。彩香と一緒なら海の底だって平気な気がした。

 

 その時彩香は、とてもいい笑顔を見せてくれた。作り笑いではなく、彩香の本物の笑顔だった。

「大ちゃん……わたし……一人でも大丈夫よ……」

「違う。おれが一人では生きて行けないんだ―――」

 とぼくが言った瞬間、彩香は重篤じゅうとくとは思えない早さでぼくの頭に手をからませ、そして唇を押し付けて来た。


 舌が絡んで来たので、ぼくも吸いついた。

 体を重ねた時にもしなかった初めてのディープなキスだった。

 ぼくと彩香は無我夢中で互いの唇と舌を攻め合った。

 しばらくして彩香がぼくの背中をトントンと叩いた。

 人影まばらな埠頭だったが、こちらを見ている人もいた。

 恥ずかしそうに頬を染める彩香だった。


「ありがとう……大ちゃん」

 彩香は疲れた様子で車椅子にもたれかかった。

「無理させてゴメンな」

「ううん……いいの。久しぶりに……興奮しちゃった……。ずいぶん……お婆さんになった……気分だったけど……わたし……まだ若かったのね……そう思えたわ……。ありがとう」

 ぼくは何も言えなかった。

 ただ彩香を見守るしか出来なかった。


「ねえ、大ちゃん……わたしね……お願いがあるの」

「なんだい?」

「わたしを……あなたの……心の片隅かたすみに……住まわせて欲しい」

「心の片隅に?」

「そう……わたし……あなたの……心の片隅に……小さな部屋を作って……住みたい。そしてね……誰かと……幸せに暮らすあなたを……ずっと見守って行きたいわ……」

(そんなの聞きたくない!)

「他の誰かと幸せになんてなれるものか! 無理だよ……そんなの……!」

「そんなこと言わないで……。あなたが幸せじゃないと……わたしは悲しいわ」

 彩香の手がぼくの頬を触れた。


「聞いて……大ちゃん……。あなたがいなくなったら……わたしの……あなたを愛する思いは……誰からも……忘れ去られてしまうのよ」

 彩香は自分の胸に手を置いた。

「この世で唯一愛した…あなたへの想いは……大ちゃんだけには……忘れて欲しくない……。だから……あなたの心の片隅に……小部屋を作って住みたいの……。そして……時々でいいから……わたしの部屋を……訪ねて来て欲しい……」

 彩香の顔はとても穏やかだった。


「思い出話でもいい……仕事の…ちょっとした……愚痴でもいいわ……わたしを…思い出して……語りかけてくれるだけで…いい。……だからあなたには……生きて欲しい……。時々でいいから……わたしの小部屋を……ノックして……。それだけで……わたしは幸せだから……」

「彩香……」

「大ちゃん……愛してるよ。わたしが……全霊を向けて……愛した相手が……大ちゃんで良かった………。本当に……ありがとう……」

「そんな…最期みたいなこと言うなよ……。生きてくれよ、彩香。おれだって…誰よりもおまえを愛している………愛しているんだよ……彩香……!」


 ぼくは本当にどうしようもないヤツだ。

 瀕死の彩香に励まされ泣くことしか出来なかった。




 それから三日後。

 ゴールデンウィークを明日に控えたその日。

 研修先で昼食を取っていた時、ぼくのスマホが鳴った。

 スマホを手にした瞬間、全身に電気が走ったような衝撃を受けた。

 彩香からの電話だった。

 恐る恐るスマホを耳にあてた。

「……は、はい」

「彩香が……! 彩香が……!」

 彩香の母親の声だった。

 取り乱したその声は、彩香の名を呼んだ後、慟哭どうこくだけとなった。

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