第21話 彩香の優しさ





 次の日も、研修が終わるとぼくは県立病院に直行した。

 研修期間の就業時間は五時までだったから、県庁から近い距離にある県立病院へは、五時半くらいに到着できた。


 ノックして303号室に入ると、彩香の母親がいた。

「大輔くんじゃないの。久しぶりね」

 無理に笑顔を見せてくれたが、見て取れるほど憔悴しょうすいしていた。

「ご無沙汰しております」

「来てくれたのね、ありがとう。彩香も喜ぶわ」

 言いながら彩香の母親は、ぼくと入れ違いに部屋を出て行った。気を利かせてくれたのだろう。


 彩香はベッドに横たわっていた。体調が悪そうだった。

「大ちゃん……仕事には……ちゃんと行ってる?」

 と真っ先にそれを口にした。

「ああ。約束したからな」

「そう。なら……安心…」

 ぼくはベッドのすぐ傍にある丸イスに腰かけた。


「髪、短くしたんだね」

 ぼくはショートカットの彩香の髪に目を向けた。

「ああ……これね……」

 彩香は苦笑いした。

「これね……ウィッグなの」

「えっ?」

「抗がん剤の副作用で……髪が抜けちゃって……」

 言いながら彩香はウィッグを外そうとしたが、ぼくのその手を止めた。

 見られたくないはずだ。特にぼくには。


「大ちゃんは……やっぱり優しいね」

 彩香はそう言った後、ぼくの胸元で視線を止めた。

 ぼくは胸ポケットにスマホを入れていた。


「ねぇ……あの写真消したの?」

 削除して欲しいと言っていた例の写真の事だと分かった。

「まだ、この中に残っているよ」

 とぼくは胸ポケットのスマホに手を置いた。

「何度も消そう思った……でも、出来なかった……。今は待ち受け画面にしているよ」

 スマホの画面をタップして見せると、彩香は力なく微笑んだ。


「彩香は始めから分かっていたんだろ? おれたちが裸で写ってないこと。どうしてあんな風にぼくに嫌われるよう仕向けたんだ?」

 彩香はゆっくりした動作で身を起こそうとした。

 ぼくが背中に手をやると、彩香はそのままぼくの肩に寄り掛かった。


「あぁ……大ちゃんの匂いがする」

「彩香……」

 と彩香を抱きしめる手に少し力が入った。

「嬉しい……」

 と彩香が耳元でささやいた。

「ゴメンね……大ちゃん。あんな言い方すれば……大ちゃんが苦しむのは……分かっていたのに。でもね……大ちゃんはまだ……わたしのことを……心の片隅に残している……そんな気がしたの……。だからわたしは……嫌われなくちゃいけない……と思った……。わたしのことを本当に忘れさせるために……。それに……愛花ちゃんの存在を知ったからよ」

 と彩香は言った。

「わたしね……調子のいい時……遠くであなたのこと……見ていたのよ」

「………」

「今年に入ってからかな……あなたに……接近する……愛花ちゃんに……気付いたのは……」

「あ、あれは……」

「分かっている。全部……愛花ちゃんから……聞いているわ。わたしと彼女が出会ってから……もうすぐ一月半になるのよ。いろんな話が……出て来るわ……お互いに」

「つまり、おまえが病気で俺から離れたことも、リベンジポルノの一件も、あいつは全部知っていたんだな」


 彩香は頷いた。

「怒らないで上げてね……。愛花ちゃん全然悪くないのよ。黙っていて欲しいって……お願いしたのはわたしなの……。そればかりか……あの日以来……時間があれば……ここに来て……わたしの身の周りの世話や……話し相手にも……なってくれた。……最近の大ちゃんの話も……いっぱいしてくれた……。感謝しかないわ……愛花ちゃんには」

 だから、と彩香は体を少し離してぼくを見つめた。

「愛花ちゃんに託すわ、あなたのこと……。彼女ならきっと……」

 そう言い掛ける彩香の唇にぼくはキスをした。


「そんな悲しい話……するなよ」

 ぼくはどうしようもないヘタレだ。

 今だってそうだ。

 彩香を勇気づけられないばかりか、涙するしか出来なかった。


「おまえがいいんだよ。今でも大好きなんだよ。それなのに、おまえのこと……忘れられるわけないだろ。バカヤロウ……」

「ゴメンね」

 と謝りながらも見せる彩香の笑顔は、どこかおだやかに感じた。

「こんなことなら……歯磨きしておけばよかったわ。まさか……キスしてくけるなんて……思わなかった……。嬉しかったわ……大ちゃん」


 抱きしめる彩香の肌からは、かすかに薬品みたいな匂いがした。

 闘病生活の疲労と薬漬けの結果なのだろう。


(いい匂いしていたのに……)

 病気と闘ってきた彩香の苦しみを思うとまた泣けてきた。


「大ちゃん……泣かないでよ」

「ゴメン……力にならなきゃいけないのは…おれなのに……それなのに……」

「ありがとね、大ちゃん。愛してる」

 彩香がぼくの頭を抱きしめた。

 彩香の胸がぼくの顔にあたった。

 豊満な胸だったのに、その片鱗へんりんすらうかかえないほど痩せていた。


「愛花ちゃん……入っていいよ」

 と彩香が言った。

 ぼくはドアの方を振り返った。

 ドアの磨りガラス越しに、立ち止まっている人影が見えた。

「いいのよ。入って」

 彩香が再度うながすと、ドアが開き、愛花が顔を覗かせた。


「あの……聞き耳を立てて、ごめんなさい。買って来たもの渡したら、すぐに帰ります」

 申し訳なさそうな顔で愛花が入って来た。

「いいのよ。わたし……眠くなってきたから……。愛花ちゃん…後は頼んでいいかしら」

「彩香」

「大ちゃん…ごめんなさい……。今日は少し調子が悪かったの……。でも嬉しかった。大ちゃんが来てくれて……」

「分かった。明日必ず来るからな」

 そう言いながらぼくは、彩香の肩を抱きながら、そっとベッドに寝かせた。

「大ちゃん……わたし…幸せよ」

「……うん」

「また…来てね」

「毎日来るよ。絶対に」

「嬉しい。でも…仕事は優先よ。これだけは……お願いだから」

「分かっているよ」


 と、その時、

「愛花ちゃん帰って来たのね」

 彩香の母親が入って来た。


「ごめんなさいね。買い物頼んだりして」

「いいえ、選果場はすぐ近くでしたから」

「いくらだった?」

「二つで七百円です」

「そう。ありがとうね」

 愛花が彩香の母親に差し出したのは、彩香が大好きな白桃だった。

「これ、お釣りです」

「おつりはいいわ」

「でも」

「千円からのお釣りなんて大した額じゃないでしょ。いいのよこれくらい―――それにいつもありがとう。愛花ちゃんが来てくれるから、とても助かっているのよ。明日から新学期よね。受験生なんだからしっかり頑張ってよね。今まで本当にありがとう」

 彩香の母親はそう言って涙を流した。

「おばさん、そんなこと言わないでください。わたしはまた彩香さんに会いに来たい。立花先生のお話はとてもためになりますから」

「そう言ってくれると嬉しいわ」

 


 その後、ぼくと愛花は彩香の母親に挨拶あいさつを済ませると、303号室を後にした。

(彩香……)

 後ろ髪を引かれた。

 いとしさが胸を突きさす。

 眠っていてもいい、ずっと彩香の傍にいたかった。

(だけど……)

 その思いはぼくのわがままなのかもしれない。


 彩香だってずっとぼくが傍にいて欲しいはずだ。

 苦しいはずなのに……辛いはずなのに……彩香は消え去る自分より、今より先にある、ぼくの未来に想い向けていた。

 そんな彩香の優しさがぼくには逆に辛過つらすぎた。


 また涙がこぼれそうになり、顔をそむけた時、

「ごめんなさい。わたしこれからバイトがあるので先に帰ります」

 愛花はまだ到着していないバス停へと走った。

 それは、涙を見られたくないぼくへの、愛花なりの思いやりなのだろう。

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