第15話 卒業





「あっ、忘れるところだった。わたしこれから久保川さんと約束があるんだよ」

 相良琴美さがらことみはそう言って立ち上がった。

「春木君もアパートに帰るんだよね」

「ああ。塾の準備もあるしな」

 ぼくもベンチから腰を上げた。

 思ったよりもスッと立ち上がれたことに少し驚いた。

 ちょっとだけ心も軽くなっていた。


「ありがとな、相良」

「え? わたし何もしてないよ」

「そうだね。何もしていないよな」

「そうよ。わたしの身の上話を聞いてもらってただけだよ。アハハハハ」

 といつもの陽気な笑い声をあげた。


 これから向かう場所は同じだ。

 必然的に肩を並べて歩く形となった。

 ビッチな金髪陽キャギャル―――。

 だけど、能天気なヤツだと決めつけていた相良にも、抱えている苦悩がある事を知った。

(おれだけが異性との関係に苦しんでいるわけじゃないんだ)

 そう思えた。


 声を掛けてくれた相良には、感謝しかなかった。

 もし相良がぼくに質問攻めにしていたら、ぼくはきっとかたくなに心を閉ざしていただろう。

 だけど相良は、一切ぼくの事を聞こうとしなかった。

 話したくなかったかもしれない自分の身の上話の中で、ぼくに何かを掴ませようとしてくれたのだ。


 ぼくは心が折れそうになっていた。

 受験目前の生徒達の講義もすべて投げ出して、部屋の中に閉じ籠っていたい気分におちいっていた。

 相良にどういう意図があったのかは分からない。

 だけど彼女がぼくの手を引いて立ち上がらせてくれた事だけは間違いなかった。

 こうして相良と一緒にアパートに向かっている今も、彩香の一件は、心の中にモヤとして深く根付いているが、前に向かって歩こうと言う気持ちにはなっていた。


 さっきまでいた公園はアパートから近かった。

 路地の突き当り百メートルくらいの所にアパートが見えた時、ふいに相良が立ち止まった。


「ねぇ、アドレス交換しない?」

「えっ?」

「ああ、ゴメンね。春木君、真面目だからわたしのようなビッチは嫌だもんね」

「そんなことないさ」

 とぼくは笑った。

「昨日だったらゴメンしていたけど、本当の相良を知った今は、友達にはなれると思う」

「じゃあ、セフレになる?」

「ばか。調子に乗り過ぎだ」

「だよね」

 ぼくと相良は顔を見合って笑い声をあげた。そしてぼくと相良アドレスを交換した。


「初めてだね。春木君がわたしに笑顔見せてくれたの。でもさ―――やっぱ、春木君とセフレはないわあ」

「だろうな。ウジウジと悩みをかかえ込む、こんな男が相手じゃ、一緒にいても面白くないもんな」


「そうじゃないの」

 と相良は意味深な目を向けて来た。

「春木君は一途な人だから、深く関わるとセフレのままではいられなくなる気がする」

 それにね、と相良は言葉を続けた。

「愛花ちゃんがアプローチしているでしょ? 略奪愛なんてのはわたしの趣味じゃないしね」

「園宮とはそんな関係にはならないよ。おれだって略奪愛は趣味じゃないよ」


「……ヒロシ君のことよね、それって」

 ぼくの言わんとする所を相良は察していた。

「ああ。おれが気に掛けているのは、園宮ではなく、むしろヒロシ君の方だからね」

「……分かるよ、春木君の気持ち。ヒロシ君って、タイプは違うけど、春木君になんか似ているもんね」

「ヒロシ君のこと、よく知っているみたいだな?」

「よく知っているわけじゃないけどね。いつだったかな……スーパーの路地裏でウロウロしているのを見かけて、気になって声を掛けたことがあってね。喫茶店で――― ほら、春木君がパスタおごってくれたところ――― そこに入って色々と話を聞いたりしたの。本当に彼は生真面目で性格の良い少年だったわ」


「ああ、そういうことか」

 どうやら相良は困っている人間を放っておけない人間らしい。

「でもね、愛花ちゃんだって悪いじゃないよ。そこのところ分かってあげて欲しいよ」

「………」

 それには頷けなかった。

 園宮の本質が悪くないのはぼくも知っている。


(だけど……)

 付き合っている彼氏をいきなり振って、他の男になびこうとする愛花の行動は、どうしても容認できなかった。 

 ヒロシに致命的な欠陥があるのならまだしも、彼は他人に気遣いできる心優しき少年じゃないか。



 ぼくと相良はアパートの二階の階段を上り、一つ手前の久保川さんの部屋の前で止まった。

「じゃあ、またね」

 相良は満面の笑みを浮かべて手を振った。

「ああ、またな」

 満面とはいかないが、ぼくなりに精一杯の笑みを返した。

 ぼくの顔をマジマジと見つめていた相良が、プッと噴出した。

「アハハハハ。春木君の笑顔、なんかぎこちない」

「う、うるさい。じゃあな」

 照れ隠しもあって、ぼくは勢いよく扉を開けて部屋の中へ入った。


(相良は相良なりに気遣ってくれているんだな)

 相良に対してはいい方向で見誤っていたと思った。

 だが、一人の部屋に入った途端、先程の彩香とのやり取りを思い出し、再び涙が出て来た。

(本当に終わっていたんだな、おれ達……)

 忘れていたと思っていた彩香と過ごした時間―――彩香の匂い―――そして彩香への恋心……。

 ぼくの心の奥底には、まだ彩香への想いの欠片かけらが残っていた。

(それなのに……)

 リベンジポルノを疑うほどに、ぼくは彩香から信用されていなかったのだ。


 五年先は無理でも、十年後の同窓会の席では、

『おれたち恋人だったよな』

 と昔の事みたく笑いあえたらいいなと思っていが、それはもう出来そうになかった。

 本当に終わったと思った。

 足の先から力が抜けたぼくは、ドアに背中を押し付けながら、そのまま座り込んでしまった。

 ぼくは声を押し殺して嗚咽おえつした。

 立ち上がらないといけないのだ。

 だからこそ今は思いっきり吐き出したかった。

(さよなら……彩香)

 これでようやく、彩香とも卒業できるだろう。

 いや、卒業しなくちゃいけないんだ。

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