第11話 愛花の父





 その週の日曜日に、ぼくは駅前のカフェにヒロシを呼び出した。


「すいません、いきなりメアドを差し出したりして。それから連絡くれてありがとうございます」

 ヒロシはスポーツマンらしく、テーブルに頭が当たりそうになるほど、お辞儀をしてから着席した。


「練習は大丈夫だったのかい?」

 名門野球部ともなれば練習は365日が当たり前と聞いていた。

「は、はい。問題ありません」

 一瞬曇らせたヒロシの表情で、問題なくないのは分かった。

「練習は午後からですから」

 と付け加えるよう言ったが、午前の練習は無理して抜けたのだろう。


「このメモをくれる前に、顔を合わせておいて良かったよ」

 とぼくはヒロシのメモを見せた。

「でなきゃ、いきなりこんなもの送り付けられても、気持ち悪くて無視していただろうね」

「すみません。不躾ぶしつけでした」

 とヒロシははにかんだ様子で頭を下げた。

「あははは。いいよ、別に気にしてないから」

「すみませんでした」

 ヒロシは所在なさ気に頭を掻いて見せた。

 身長はゆうに百八十センチを超える細マッチョの少年だが、そんな彼が見せる内気な仕草に、ぼくは自然と笑みがこぼれた。

 

 あの日――― ヒロシと初めて会った日 ―――アンビシャスの郵便ポストに、差出人も書かれていないぼく宛ての封書が入っていた。

 その中に、ヒロシの携帯アドレスとメールアドレスの書かれたメモが入っていた。


 ぼくがヒロシと会って話そうと考えたのは、彼が話の出来る相手だと思ったからだ。

 何よりも、愛花との経緯いきさつをヒロシには知っておいて欲しかったのだ。

 ぼくが愛花とのこれまでの事を話すと、ヒロシは知っているとばかり何度も相槌あいづちを打って見せた。


 一通りぼくの話を聞いた後、

「愛花とおれは、中学からの付き合いなんです」

 とヒロシは語りだした。

「最初はおれのNPB(日本プロ野球)選手になる夢も応援してくれていたんですよ。それが、中学二年の冬に、愛花のお父さんが病気で死んだときから、急に応援してくれなくなったんです。野球にのめり込まないでって、言われるようになったんです」


『野球選手なんて望まないで。野球は青春の思い出と割り切って、現実的な将来の展望を見据えて欲しいの』

 愛花はヒロシにそう訴えたと話した。


「愛花の思いは分かっているつもりです。だけど、それでもおれは中途半端な気持ちで野球と向き合えなかった……。愛花を思う気持ちとおんなじくらい、野球にも惚れているんです」

 ヒロシの真っ直ぐかな眼差しがそこにあった。

(野球にも惚れている……か)

 息を吐くように真顔でそんな言葉を出せるヒロシの事を、率直そっちょくにスゴイと思った。純粋過ぎる少年だとも思った。

 きっと愛花は、ヒロシのそんな部分に惹かれたのと同時に、危うさも感じたのだろう。


 だとしてもだ。―――別れは告げたと言っても、愛花の行動はヒロシに対する明らかな裏切りだ。

「キミは園宮のことを許せるのか?」

 ぼくが尋ねる事ではないかもしれない。

 だけど、どうしてもそれだけは聞いて置きたかった。


「腹は立ちます」

 とヒロシは唇を噛みしめた。

「だけど愛花の気持ちは、おれには痛い程分かるんです」

「理解出来ると言うのか? 園宮はキミを捨てて他の男に走ろうとしているんだぞ。―――まあ、オレがこんなこと言うのは変な感じなんだが、キミはこんな仕打ちをされてもなお、あいつを許せるというのか?」

「許せるとか許せないとかじゃないんです」

 とヒロシは視線を落とした。

「おれはただ……愛花に戻って来て欲しいだけなんです。愛花が春木さんに近付いたのは、いい加減な気持ちじゃないのは分かっています。むしろ相手が春木さんで良かったと思っています」

「おれは園宮に何かするつもりはないけど、ヒロシ君からすれば恋敵のはずだよ。そんな相手を目の前にして、何で落ち着いていられるんだよ」


 ぼくはヒロシよりも五つも年上だ。

 当然大人の態度でいどみたかった。

 だけど今、取り乱しているのは、明らかにぼくの方だった。


 ぼくは他の男に身を任せた彩香を許せなかった。

 大好きだから……本当に愛していたこそ、許せなかった。

(なのに……)

 高校生のヒロシの方が、もう直ぐ社会人になろうとしているぼくよりも、大人の視点で物事を見ている。

(心が深く繋がっているというのか)


 ヒロシと愛花の間には男女の関係はない。

 愛花がそう言った。

 それは本当だろう。


(それなのに……)

 ぼくと彩香は心も体も深く繋がっていたはずだ。

 だけどそれは簡単に崩れた。


 ふと、別れを告げられたあの夜の公園が、頭をかすめた。

(あの時おれが……)

 ヒロシの様に強い気持ちを以て彩香を引き止めていたらどうなっていただろう。

 無駄だったかもしれないが、別の展開があったかもしれない。


「春木さん。これを見てくれませんか」

 とヒロシに声を掛けられて、ぼくは我に返った。

 ヒロシはそう言いながら自分のスマホの画面をぼくに差し向けた。

(何を見せるつもりなんだ?)

 そう思いながらスマホを覗き込んだ。


 十三歳ぐらいだろうか、そこには今よりも幼い顔立ちの愛花とヒロシ―――それと二人のあいだに三十歳くらいの男性が写っていた。

 そしてぼくは、真ん中にいる男性の顔を見てハッとした。

(この人、おれにそっくりだ)


「愛花の父親です」

 とヒロシはぼくの顔色をうかがうよう上目遣いに見た。

「………!」

 言葉は出なかった。

 いや、言葉など必要なかった。

(そう言うことか……)

 初めて会った時に桃子とうこさんが見せた、驚いたような表情の意味を、ぼくはようやく理解した。


「愛花のお父さんには、時々愛花と一緒に会っていました」

 愛花は遅くまで仕事をする父のため、ご飯を作りに通っていたと話した。

「借金を一人で背負った愛花のお父さんは、昼夜を問わず働き詰めでした」


 話を続けるその内容はこんな感じだった。

 愛花の父の名前は雅人まさとと言った。



『今のような生活していたらいつか体を壊すわ』

 と愛花は涙ながら父・雅人に訴えたと言う。

『わたし中学を出たら就職してお父さんと一緒に借金を返済するから無理しないで』

『バカなこと言うな! お前が進学あきらめるんだったら、お父さんのしている苦労は一体何なんだよ! 借金を終えて、もう一度家族一緒に暮らせる未来を信じているから、今を頑張って行けるんだ。その中にはお前が立派な大学を出て、いい会社に就職する未来も含まれているんだよ』

『お父さん……』

 雅人は泣き出す愛花を抱きしめた。

『お前にも苦労かけると思うし、苦学させると思う。だけど、それを乗り越えて頑張って欲しいんだ。―――すまない。本当に、こんな不甲斐ないお父さんで、申しわけない……』

 言いながら雅人も涙した。

『ヒロシ君』

 と涙を拭いながら雅人がヒロシに顔を向けた。

『愛花のこと頼む。父親のおれが言うのは何だけど、このは本当にいい娘なんだ』

『はい……。分かってます』

 ヒロシも感極まって泣いてしまった。


 雅人が倒れたのはそれから数か月後の事だった。

 末期がんだった。

 雅人はそれを知っていたらしい。

 医者からそれを聞かされた時、愛花はその場に崩れ落ち号泣した。

 愛花は学校にも行けず、しばらく立ち直れなかったと話した。



 語り終えたヒロシの目は充血していた。

「おれは愛花のお父さんと約束しました。愛花を必ず幸せにすると…」

「………」

「出来ればこのおれの手で幸せにしたい………。だけどそれが叶わなかった時は、誠実な人に愛花を託したいんです」


 ヒロシがぼくを見つめた。

「塾の人や姉ちゃんからもいろいろと春木さん人柄を聞きました。おれも春木さんと話してよく分かりました。春木さんだったら、愛花を任せられると思いました」

「ちょっと待った、ヒロシ君? キミは何を…」

 ぼくは身を乗り出して誤解を解こうとしたが、ヒロシはぼくに言葉をはさむ余地を与えてくれなかった。


「夏まで待ってくれませんか! 夏まででいいです!」

 ヒロシは強い口調でそう言った。

「おれにも勝負する機会を与えて欲しいんです。今のおれでは春木さんに勝てる要素は何一つありません。悲しいけどそれは自覚しています。それでも、このまま愛花と別れるのは、試合に出られないまま負けたようなものです。そんなの悔しいじゃないですか」


 ヒロシは唇をかんだ後言葉を続けた。

「おれには野球しかありません。地区予選を勝って必ず甲子園に出場します。甲子園に出たらおれは絶対にスカウトの目に留まる活躍をして、プロ野球選手になります。そしてその時おれは、ちゃんと愛花にプロポーズしようと思います。ですから、春木さん―――」

 ヒロシが熱い眼差しをぼくに向けた。

「夏まで愛花のことを守ってくれませんか? おれが同じ土俵に上がるまで待ってください。お願いします!」

 ヒロシは座ったままテーブルに額を押し付けた………。


 愛花を思うヒロシの気持ちが痛いほど分かった。

 そして、愛花の悲しみや思いも、知ってしまった。

(聞かなければ良かった……)

 知らなければ、愛花を悪者にして背中を向ける事も出来たのに……。

 ぼくは真っ直ぐな目を向けるヒロシを前にして、ただ溜息ためいきくしか出来なかった。

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