第10話 すれ違い





「春木大輔さんですね」

 夕映えの中に、身長百七十五センチのぼくを見下ろす、戸惑い顔のヒロシ少年がいた。

「ヒロシ君だね」

 ぼくが言うとヒロシは驚いたように目を見開いた。


「おれのこと、知っているんですか?」

「クリスマスの夜に、偶然見かけてね」

 ぼくがそう言うと、

「ああ―――あれ見てたんですか……」

 ヒロシは斜め上に視線を向けながら、苦笑いした。

「ハハハ……。恥ずかしいところ見られたみたいですね」

 とヒロシは自分の頭を掻いて見せた。


 何か文句でも言って来るのでは―――と思ったが、ヒロシに敵意はなさそうだった。

 とは言え、ぼく達の間には少し気まずい空気が流れていた。

 何か言葉を口にしようと思うが、何を話していいのか分からなかった。

 それはヒロシも同じだったに違いない。


 しばらくしてヒロシの方が口を開いた。

「愛花から聞いているかも知れないけど、おれ、須浜学園二年で野球部所属の榊原宇宙ひろしと言います。宇宙と書いてヒロシと呼びます」

「ご丁寧にどうも―――おれの方は紹介の必要はないよね」

 とぼくが言った時、

「ヒロシ!」

 強張らせた顔の愛花が、ヒロシの背後に見えた。


「愛花……!」

 愛花は足早に近づくと、ぼくをかばうようヒロシの前に出た。

「春木さんに変なことしないで。悪いのはわたしだけなんだから」

「分かっている。春木さんが悪い人じゃないのは知っているさ」

 ヒロシは改めてぼくに頭を下げた。


「コソコソと春木さんのこと調べたのね」

 と愛花がヒロシを睨んだ。

「調べたと言うより、調べようとしてスーバーで働いている春木さんを見ていたら、偶然出くわした姉貴あねきが春木さんのこと知っていたんだ」

 とヒロシは再びぼくを見た。

「榊原亜理紗ありさって憶えてますか?」

「榊原亜理紗…! ああ、アリサちゃんか」

「亜理紗はぼくの姉なんです」

 榊原亜理紗―――それは同じ国立大学の二つ年下の後輩であり、アンビシャスでのぼくの教え子第一号でもあった。


「キミはアリサちゃんの弟だったのか」

「はい。アネキから春木さんのことはいろいろ聞いています。今回のことも、春木さんからではではなく、愛花の一方的なアプローチだってことも分かっています。ですから、春木さんに対して嫌な感情は持ってません」

 スポーツマンらしくきびきびした物言いだった。


「もういいでしょ」

 と愛花が言った。

「春木さんは今から塾の仕事があるの」

「それも知っている」

「じゃあ、邪魔しないで。それから…わたしたちには…もう関わらないで。お願いだから……」

「……分かった。今日はおれ帰るよ。でも」

 愛花を真っ直ぐ見つめるヒロシだった。

「おれ、おまえのことあきらめないからな」

「や、やめてよ…こんなところで」

「おまえのことを一番好きなのは、おれなんだよ」

「だからやめてって言ってるでしょ」

 言いながら口元を引き締める愛花がいた。

 ヒロシを好きな愛花の心の内が読み取れた。

「ごめん、行くから」

 泣き出しそうな顔だった。愛花もヒロシも。

 

「なあ、これでいいのか?」

 ぼくの前を歩く愛花に声を掛けた。

「これでいいんです」

「いいはずないだろ? そんなに悲しい顔して。好きなんだろ? ヒロシ君の事が。いい男だと思うよ、彼。ちゃんと話せよ」

 だけど愛花は、ぼくに背中を向けたまま返事もしないで歩みを進めた。

 ぼくはヒロシを振り返った。

 夕日を背にしたヒロシは、じっとたたずんだまま、愛花の背中を見つめていた。

 愛花はふいに、小走りで駆け出した。



 雑居ビルの入口に着くと、アンビシャスの事務員が出て来た。

「愛花ちゃんが来たので、食事に行ってきます」

 それだけ言うと飲食店街に向かった。

 ぼくが塾の講師に就いたタイミングで、愛花もアンビシャスの事務のバイト始めた。

 スーパーのシフトがない時限定だが、愛花は有能らしく、峰山さんからはかなり重宝がられていた。


 アンビシャスの事務所に入ると、先に着いた愛花がぼくを待っていた。

「先程は失礼いたしました。でもわたし、絶対にいい奥さんになるし、いいお母さんにもなります。春木さんとなら、幸せな家族を作る自信があります」


 事務所には誰もいなかった。峰山さんもまだ来ていなかった。

「春木さんに好きな人がいるかどうかは聞きません。例えいたとしても、二番目にわたしのことが好きなら、それでいいです」

「おれには、園宮のその考えが理解出来ない」

「理解されなくていいです―――今は…」

 愛花は瞳を少し潤ませてぼくを見上げた。

「…今は辛いかもしれません。だけど………一番好きな人を憎んでしまう未来よりも、二番目に好きな人との幸せな未来を選びたいんです」

「園宮」

「わたし、前にも言いましたよね。高収入がある人に憧れているわけじゃないんです。普通に生活ができる安定した仕事があればいいんです。そして何よりもわたしが一番に望んでいるのは、手を取り合ったお父さんとお母さんの周りを子供達が走り回る、そんな家族絵図を一緒に描けられる人なの―――その相手が春木さんだとわたしは確信しているんです」


 愛花は切実な眼差しでぼくを見ていた。

 壮絶なまでの愛花の思いに、ぼくは返すべき言葉が見当たらなかった。

 何よりも、こんなの高校生の考える事じゃないと思った。

(なんて伝えればいいんだろう)


 ぼくが言葉を捜していると、

「今すぐとはいきませんが」

 と愛花が口を開いた。

「わたしを大人にしてくれてもいいのですよ。わたしだってそれくらいの覚悟を以て、春木さんに近付いたんですから」

「………!」

「隆二の受験が終わったら…その時なら…」

 言いながら視線を落とす愛花に、ぼくは次第に腹が立ってきた。


(彩香もこんな風に、ベテラン作家に取入ったのか?)

 作家としての後ろ盾を得るためにベテラン作家の愛人となった彩香。

 ヒロシという恋人がいながら、いかにも『わたしは間違っていない』と正論ぽく言葉を並べ立ててぼくを誘う愛花。

(二人のやっていることは、同じだ)


「園宮……おまえは、ヒロシ君の気持ちを考えたことはあるのか?」

 ぼくの言葉に愛花は視線を落とした。

「大好きな彼女が他の男に取られようとしている、彼の気持ちを考えたことはあるのか?」

「……ヒロシにはちゃんと別れを告げました」

「そんなの聞いちゃいないよ!」

 つい声を荒げてしまった。


 ぼくはずっと彩香を待っていた。

 ぼくだってバカじゃない。

 彩香に違う男の影がある事くらい感じていたんだ。

 それでも、いつかぼくのところに帰ってくれる事を信じていた。いや、信じようとしていた。

 辛かった。

 苦しかった。

 そして悲しかった。

 それでも耐えていた。

 彩香に帰って来て欲しかった。

 帰って来てくれたならすべて目をつぶるつもりでいた。

 だけど、それは叶わなかった。


 愛花にも彼女なりの言い分はあるだろう。だから愛花だけが悪いとは言わない。

(だけど……)

 夕日に背を向け、愛花を見送るヒロシの寂しそうな姿が目に浮かんだ。

 それは彩香に別れを告げられたあの時のぼくだと思った。


「春木さん、わたしは…」

 と愛花が何か言いかけた時、ぼくの受け持つ生徒が入って来た。隆二とその友達の二人だ。

「お早うございます」

 元気のいい挨拶が飛んできた。

 アンビシャスの挨拶は朝夕関係なく「お早うございます」だ。

「ああ。お早うございます。今日も頑張ろうな」

 ぼくは気持ちを切り替えて二人に笑みを向けた。

「姉ちゃんも来てたのか。ああ、今日はバイトだったね」

 隆二が言うと、愛花は笑顔を作って見せた。


「お早うございます」

 間もなく三人の生徒が入って来た。

「みんなそろったな。少し早いけど、時間は大切だから始めるよ」

 五人そろったところで、ぼくに視線を向ける愛花を残して、教室へ向かった。

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