第9話 ヒロシ





 それから三日後、アンビシャスでのアルバイトが始まった。

 とは言え、一月二十日まではスーパーのバイトがあり、いくつかの時間帯でシフトが被ってしまった。

 だけど、

「塾の時間はわたしがシフトに入ります」

 と愛花がフォローをしてくれた。


 生徒たちが冬休みの間、授業は朝から晩まであったが、冬休みが明けると授業は夕方からなので、日中はスーパーのバイトに専念できた。

 とは言うものの、受験生を教えるに当たって、ぼくの知識の確認もしておかないといけなかったから、勉強時間も必要となっていた。


 そんなぼくを気に掛けた愛花は、

「無理な時はわたしがシフトに入りますからいつでも言って下さい」

 と言ってくれたがぼくは断っていた。

 愛花だって日中は学校があるのだ。

 それに愛花だけでは、空けてしまうシフトをすべてカバーできなかった。


 そんな時、ぼくたちの話を聞いていた相良琴美が、

「そのシフトわたしが入るわ。クリスマスイブにご馳走になったお礼だよ。それに収入も増えるしね。アハハハハ」

 と陽気に笑って引き受けてくれた。


 二人の協力もあって、ぼくは憂いなく授業に取り組む事が出来た。

 それに愛花の弟も含め、ぼくが教える五人の生徒は、進学校を目指す優秀な子供達だ。

 乾いた砂が水を吸い込むように、彼らの理解は速く、テンポよく授業を進める事が出来た。

 その中で少し気になる事があった。

 愛花の弟の隆二と顔を合わせたのはその時が初めてだった。

 その筈だ……。

 だけど隆二は、ぼくと顔を合わせた瞬間、少しだけ驚いた顔を見せた。

(この表情…どこかでも見たことがある)

 そう思った瞬間、初めて愛花の母親に会った時の事が、頭をもたげた。

(どう言うことだろう……?)

 隆二に尋ねて見ようかと思ったが、余計な事に首を突っ込みたくない気持ちもあって、そのままにしていた。

 


「隆二君の授業料は、愛花ちゃんがアルバイトで稼いだお金で支払っているんだよ」

 ある時、峰山さんがそう言った。

「隆二君だけは大学に行かせてやりたいと言っていたよ」


「隆二君だけは…と言うことは園宮は行かないんですか?」

「行けないんだよ。本当は行きたいんだろうけどね」

 みなまで言わなくても事情は分かるだろ、と峰山さんは付け加えた。

「彼女が通う私立須浜学園は、キミも知っての通り、野球やバレー、陸上なんかで全国大会に出場するスポーツの名門校なんだ」

「園宮も何かの選手ですか?」


「いいや」

 と峰山さんは首を横に振った。

「最近では須浜学園も勉学に力を入れていてね、特進科と言うのを設けて、愛花ちゃんは特進科の中でもS進と呼ばれる特待生で、授業料はもとより学校で必要なあらゆる費用がすべて免除されているのさ。それに加えて、毎月返済不要の奨学金ももらっているし、修学旅行費用も学校が出してくれるんだよ」


「すごいな」

 ぼくが驚くと、峰山さんはクスッと笑った。

「なに言ってんの。春木君だってほぼ同一条件の特待生じゃないか」

「ええ、まあ」

「それにキミだって、特待生に対するこだわりはあったんだろ?」

「はい」

「それは何?」

「両親に負担をかけたくなかったから…」

 ぼくは言いかけて言葉を切った。

「おれと同じか……」

「そう言うことだね。愛花ちゃんは春木君によく似ているよ」

 峰山さんがぼくを見据えていた。

「キミは誤解しているかもしれないけど、愛花ちゃんは真っ直ぐな子だよ。いい加減なじゃないよ」

 どうやらぼくと愛花の関係は、峰山さんの知る所らしい。 



 愛花は悪いではない。

 むしろ、真面目で真っ直ぐで、優しいいい娘だと思う。

 それだけによけい残念でならなかった。


 愛花が本当に好きなのはヒロシという少年だ。

 だけど愛花は、結婚して幸せな家庭を築ける相手ではないと、春木大輔という男を見つけ、一番大好きなその少年を切ってしまった。

(こんな真面目でいい娘でさえ、そんなことが出来るのか……)

 それを思うと、世の中の女と言う存在を、怖いとも信じられないとも感じた。


 だから愛花に対しても、嫌悪感を拭い去る事が出来なかった。

 とは言え、峰山さんとの再会を取り持ち、新生活に向けた割のいいバイトを膳立ぜんだてくれた恩義は感じている。

 だから、付き合うとか別にして、以前の様に邪険には出来なくなっていた。


(それに……)

 愛花の母親を見たあの時から別の思いも芽生えていた。


 塾がある時、昼のランチにぼくはラ・セーヌを利用するようになっていた。

 正月の特別ランチこそ少し高かったが、平日のお奨めランチは、千円で銅貨二枚のお釣りが出る。

 学生の分際で安いランチとは言えないが、塾のバイトのお陰で、エンゲル係数は以前より低く抑えられていた。


 愛花の母親の名は桃子とうこと言った。 

 ぼくを見るとニコリと笑みを向けてくれる。

 あの日愛花の隣りにいたぼくを憶えていたのだ。

 ランチを食べながらも、ぼくの視線は桃子さんを追っていた。

 だからと言って彼女に対して特別な感情を持った訳ではない。



『大輔。嫁にする女を選ぶ時、絶対その母親を見るんだよ』

 そう言った母方のお婆ちゃんの言葉を思い出していたのだ。



 桃子さんは間違いなく美人だった。それに周囲に対しても常に気配りしを欠かさなかった。

 意地の悪い年配スタッフの静かな嫌がらせにも、桃子さんは笑顔を絶やさず対応していた。

(あの強かさは愛花にも引き継がれているな)

 機敏な動きや、よく動く瞳も、愛花と同じだった。

 忙しいランチタイムにかかわらず、若いスタッフに対しては、懇切丁寧に指導できる優しさがあった。


 愛花たちに対しても、きっといい母親なんだろうと感じた。

 だけど……。

(亡くなった旦那さんにとっては、どうだったんだろ? 本当に好きなら、一緒に頑張ろうと思わなかったのか?)

 泣く泣く離婚に同意したと愛花は言ったが、借金まみれの夫と離別した事で、桃子さんは何処かで安堵したかもしれない。


(意地の悪い深読みかな……)

 彩香との一件以来、どうもぼくは、女に偏見の目を向けてしまうきらいがあった。

 だけど、愛花とその弟の事を考えれば、愛花の父は苦渋の決断をしなければならなかっただろうし、桃子さんにしても同じことが言えたのだろう。


 もしぼくが愛花の父の立場だったら、愛すべき家族に負債は背負わせたくないと、やはり同じ事をしたかもしれない。

(本当はいい家族だったんだろうな……)

 そんな家族が家族でいられなくなるなんて、とても悲しい事だとぼくは思った。


 だから愛花は、二番目に好きなぼくと、愛花の両親が果たせなかった幸せな家庭を作りたいと望んだのだろう。

 愛花は正直美人だと思う。

 優しさもあった。

 瓜二つの桃子さんを見て、二十年後の愛花がそこにいると思うと、尚の事気持ちが揺らいでしまう。


(おれは愛花が好きなのか?)

 自分に問い掛けてみる。

 正直興味はあった。

 だが、付き合うとなると一歩踏み込めなかったし、結婚を前提とした付き合いなんて更に遠く感じた。


(かたく考えないで恋を楽しんだらどうだ?)

 いや、それは出来ない。

 少なくとも愛花はヒロシ少年を切って、ぼくと結婚を前提にした付き合いを求めて来たのだ。

 その思いは、おそらく真っ直ぐだろう。

 遊びの付き合いは望んでいない。愛花もぼくも。


(じゃあ、これからどうする? このままズルズルとラブコメのような関係を続けるのか?)

 違う。

  

(それとも―――まだ彩香に未練があるのか?)

 いや、それはない……たぶん……。


 あれこれ考え過ぎて、自分がどうしたいのか見えなくなっていた。

 ただ、一つ言えることは、条件の合う男が他に現われれば、愛花はきっとぼくを切るだろう。ヒロシ少年を切ったように……。

(彩香の二の舞は…もうゴメンだ)

 その思いが強かった。

 愛花と距離を縮められない理由はそこにあった。



 夕暮れの街をアンビシャスに向かっていると、

「すいません」

 背後で誰かの声が聞こえた。

 駅の間近なので、早帰りのサラリーマンや学生たちがそこそこいた。

(おれじゃないだろう)

 とそのまま振り返らずにいると、

「あのぉ」

 と肩に手を置かれたので、ぼくは振り返った。

 するとそこには、愛花のボーイフレンドのヒロシがいた。

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