第8話 桃子





 峰山さんの提示した時給はぼくの希望を上回っていた。

 それに、新生活の準備で一番問題となる住宅関連事項も、峰山さんが解決してくれた。



「新年度から、このビルの四階にある空きフロアを一つ借りることにした。口コミとネットレビューで高評価を頂いてね、この春から生徒さんがさらに増えるんで、三階のフロアだけでは手狭になってね。アハハハハ」

 と峰山さんは高らかに笑った。

「成長してるんですね。良かった…」

 アンビシャスの事は少なからず気になっていたが、途中で抜けたうしろめたい気持ちもあって、就活を理由に峰山さんとは疎遠になっていた。


「それとね、春木君。憶えているかい?」

 と峰山さんが口調を変えた。

「個人レッスン用に借りていた、大学近くのワンルームマンションの二部屋のこと」

「ええ」

 とぼくは頷いた。

 その二部屋は『家庭教師のアンビシャス』を起業した時に使っていた事務所兼個個別レッスン室だった。


「個別レッスンをこの上のフロアに移転して、三月をもってワンルームマンションの契約を終了するつもりだったんだけど……」

 と峰山さんはニヤリとぼくの顔を見た。

「塾の仲間が、一人暮らしを始めたいと言うんで、部屋の一つは、その人に権利を譲渡したけど……もう一部屋は空いたままなんだよな……今のところは」

「えっ?」

 ぼくは峰山さんをガン見した。

「それって、もしかして…あの部屋をぼくに?」

 峰山さんは微笑んだまま頷いた。

「家賃までは面倒みられないけど、部屋の敷金はそのままキミが引き継いでくれていい。今回の案件の報酬の一環としてね」

「ありがたいけど、そこまでしてもらっていいんですか?」

「いいんだよ。ネットのレビュー高評価にはキミの功績がかなり反映していたからね。当然の権利だと思ってくれよ。それに今から部屋探しとなるとちょっと苦労するよ。―――最寄りの駅まで徒歩二分。県庁まで電車で三駅だから、理想的な賃貸物件だと思うよ」

「確かに」

「じゃあ、決まりだな」 

 と峰山さんに背中を叩かれ、ぼくは彼の好意に甘える事にした。



 峰山さんとの話し合いが終わったのは正午過ぎだった。

 雑居ビルを後にすると、

「悪い話しじゃなかったでしょ?」

 隣りにいる愛花がニコリとした。

 ぼくは愛花を見た。


(結婚を前提としたお付き合いをしてください)


 今まで、ぼくの事を何も知らないくせにそう言って来たのだと思っていたが、どうやらそれは少し違ったようだ。

 事務室の壁にはスターティングメンバーの写真が飾ってあって、当然そこには、ぼくの姿もあった。

 十月からスーパーのバイトを始めたぼくを見て、

『この人、見たことがある』

 と愛花は感じただろう。

 それが写真の中の一人と気付けば、峰山さんを通して、当時のぼくを知る事も出来たわけだ。


「おれのこと、峰山さんから聞いているんだろ?」

「はい…」

 ぼくの問いかけに愛花は小さく頷いた。

 ふと、彩香の新刊を手にした昨夜の愛花の姿が脳裏をかすめた。

「あいつのことも……聞いていたのか?」

「あいつ? 誰のことですか?」

 小首をかしげる愛花の表情に屈託はなかった。

「ああ、いや、別にいいんだ。園宮には関係ないヤツだから」

 どうやら峰山さんは、彩香の事を話題には出さなかったようだ。

(そもそもおれと彩香と付き合っている事は、峰山さんも知らなかったかもしれない)

 彩香はそこそこ裕福な家の娘だから、アルバイトはしていなかった。

 峰山さんとの直接の繋がりはなかったから、ぼくと彩香が付き合っていた事は、彼も知らなかったと考えるべきだろう。


「あの、お昼どうします? 良かったらご一緒しませんか?」

 と愛花が言った。

「すぐそこに母が務めているレストランがあるんです」

「園宮のお母さんはレストランに勤めているのか」

「はい。シェフをしています」

「シェフ? すごいな」

「シェフと言っても、調理師免許を持っていないので、肩書はサブシェフなんですけどね」

 言いながら視線を斜め下に落とした。

 その時のぼくには、愛花のその仕草の意味が分からなかった。


 愛花の母がサブシェフをしているというレストランは駅前商店街にあった。

「ここがそうです」

 と愛花が立ち止まったレストランは、全国のグルメガイドブックにも掲載された事のあるラ・セーヌと言うフランス料理店だった。

「こんな有名店のサブシェフをしているのか? すごいな」

 さぞかし高いメニューが並んでいるだろうと思ったら、正月限定ランチが千五百円だった。

「思ったほど高くないでしょ? それに―――」

 と愛花はポシェットからチケットのようなものを取り出した。

「無料券をお母さんから頂きました」

 そう言うと愛花は、ぼくの返事も聞かずに背中を押した。


 店内はファミレスとは違ってテーブルの間隔が広く取られ、二メートルくらいの観葉植物を間仕切りに使っていた。

 近くにいた店員が傍に来た。

「明けましておめでとうございます……。まあ、愛花ちゃんじゃないの。いらっしゃいませ。さあ、奥にどうぞ」

「今日はこれで来ました」

 と愛花は二枚のチケットをウエイトレスに見せた。

「お正月限定ランチですね。かしこまりました」

 とウエイトレスは愛花にニコリとした後、ぼくに好奇の目を向けた。


 ぼくと愛花が席に着くと、先程のウェイトレスがオープンキッチンに向かって何か喋っていた。

 話している相手は、二十代後半と思われるトックブランシュをかぶった、清楚な雰囲気の美女だった。

 トックブランシュとはコックが被る長帽子の事だ。

(女性のコックだろうか? それにしても若いな)


 そう思っていると、トックブランシュの女性がこちらを振り返った。

 愛花に手を振った後、ぼくにも目線を合わせた。

 気のせいだろうか。その女性の顔から一瞬笑みが消えたように見えた。

 しかし、改めて彼女を見つめ直した時には、満面の笑みをたたえて会釈をしていた。


「お母さんです」

 とぼくの視線の先に気付いた愛花が言った。

「えっ? うそ?」

 ぼくはもう一度トックブランシュの女性を凝視した。

 どう見たって三十代半ばには見えなかった。独身だと言われても疑わないくらい美人で若々しかった。


 そしてぼくを見て顔を強張らせた愛花の母の気持ちは理解できた。

 高校生の娘が見知らぬ男を連れて来たのだから、母親としていぶかしく思うのは当然だろう。

(だけど……さっきの愛花の母の表情は、それとは少し違うような気もする…)

 言葉では言い表せない違和感が胸の中から離れなかったが、

(まあ、どうでもいいか…)

 深く考える事はしなかった。


「若いでしょ? わたしのお母さん」

 愛花はクスクスと勝ち誇った目を向けた。

 よく見れば面立ちは愛花に似ていた。正しくは愛花が母親にそっくりと言うべきだろう。

「お母さんは料理が得意で、わたしたちが幼い頃はパートタイマーとしてキッチンに入っていたんですが、シングルマザーになった時から正規雇用で働いています」

「ずっとこの店で働いているのか?」

「いえ、ラ・セーヌに勤務して一年程です」

 愛花は元気なく視線を落とした。

 その理由は何となく分かった。


 愛花の母はキッチンで、サブと言うよりはメインで調理しているように見えた。

 それなのに、周りにいるスタッフの彼女に対する態度は、目に見えて邪険だった。

 客の手前があるのだろう。

 言葉には出さないが、彼女に向ける視線はかなりしんらつだった。

 一人や二人ではない。

 全員ではないが、キッチンにいる年配スタッフの数人から、何らかの圧力を受けている、そんな気配を感じた。

 のような空気は、見ていてかなり気分が悪かった。

 

「お母さんは実力はあるのに、調理師免許をまだ習得できないでいるんです。周四日以上一日六時間勤務で、二年以上の実務経験があれば、調理師の試験を受けられるのですが、今まで務めてきたお店は、いずれも店のオーナーが勤務実績を認めてくれなかったんです」

「どういうこと?」

「調理師免許を取れば給与を上げなくちゃいけなくなるからです。それと免許を取って他の店に移られたくないからです」

「それって義務違反じゃないのか?」

「そういうことですね」

「訴えることだってできるんじゃないのか?」

「そんなこと、母は望んでいません。ですから実績を認めてくれるレストランを探して、今はラ・セーヌで仕事をしていると言うわけなんです」

「つまり、調理師免許を持っていないから、実質シェフなのにサブシェフと言う立場に甘んじている訳なのか?」

「はい」

「で、シェフを名乗っいる人はどこにいるんだ?」

「今は病気で入院しています。シェフの味を再現できたのが、わたしの母だけだったんです」

「なるほどね。それで調理師免許を持った年配の人に妬まれた……というわけか」

 それには愛花は頷かなかった。年配の人への配慮なんだろう。


「おまたせしました」

 運ばれてきた料理はランチと呼ぶには艶やかな料理だった。愛花の母の料理センスが窺えた。

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