第6話 新しいバイト
大晦日の今日は、いつもより二時間早い十九時閉店だった。残務処理に一時間ばかり掛けた後、社員達と一緒にぼくもスーパーの裏口を出た。
「みんな来年もよろしくな。始業は三日からだから、シフトの人は忘れずにお願いします。―――良いお年を」
社員・バイトが集まる輪の中で、店長の加山さんがそう言って締めくくった。
「良いお年を」
「来年もよろしくお願いします」
「年越しは神社で迎えようよ」
「二年参りか。いいね」
その場に残りこれからの予定を話し合う者。その場からそそくさと立ち去る者。二手に分かれたが、ぼくは後者の方だ。
スーパーを離れるぼくの背後から、駆けて来る靴音を感じた。
最後まで一緒にいた愛花だった。
ぼくを追い抜き振り向きざまに、
「春木さん。スーパーのバイト辞めるんですか?」
と聞いた。
ぼくは翌年一月の二十日を以てアルバイトを辞める事を店長に告げていたから、今日張り出された一月二十一日からのシフト表にぼくの名前はなかった。
「わたしを避けるためですか?」
「それも否定しないが、新生活に向けて少し割のいいバイトを捜そうと思ってね」
「そうなんですか……」
愛花は視線を落としたが、すぐにいつもの真っ直ぐな目を向けた。
「でもわたしは、春木さんのこと諦めませんよ。わたしだって誰でもいいわけじゃないんです。そんないい加減な気持ちで、春木さんに近付いたんじゃありませんから」
ぼくは愛花のこの目が嫌いだ。
屈託ない眼差しの裏に潜む女の
「わたしは確かに春木さんのこと沢山は知りません。知り合って短い時間かもしれないけど、春木さんのことはわたしなりにちゃんと見ているつもりですし、これからも見て行きたいと思います。だからわたしのことも少しずつでも見て欲しいんです」
ぼくは愛花のそれには答えないで一人歩きだした。
愛花も負けじとぼくの隣りに寄り添って歩行を合わせた。
ぼくは無言のまま駅に向かった。
愛花も何も言わなかった。
駅の書店の角を曲がろうとした時、ふと愛花が足を止めた。
「立花彩香の新刊が出ているわ」
愛花の言葉に、ぼくの足も自然と止まった。
(三冊目が出たのか……)
複雑な思いだった。
そこには彩香が選んだ、ぼくよりも大切な、十八×十三センチの冊子があった。
「わたしこの人の小説大好きなんです。特にデビュー作の『あなたが傍にいるから』は、今まで読んだ短編恋愛小説の中で一番好きなんです」
愛花は目をキラキラさせて、
「すいません。この本買ったらすぐに戻ってきます」
と文庫本を掴むとレジに走った。
ぼくに園宮を待つ義理はなかった。
このまま立ち去ろうと思った。
だけど、彩香の新刊の隣りに添えられている彩香の処女作『あなたが傍にいるから』に目が止まった時、ぼくの足は前に進まなくなっていた。
『あなたが傍にいるから』は文芸新人賞受賞作だ。
コミュニケーションの不得手な少年少女が、メールではなく、交換日記という古風なやり取りの中で信頼を寄せ、やがて恋へと変わる、爽やかな青春ラブストーリーだ。
この作品にはぼくと彩香の交際が色濃く反映されていた。
時代遅れとも言える交換日記は、当時のぼくと彩香を繋ぐ大切なコミュニケーションだった。
「お母さんの高校時代、交換日記が流行っていたらしいの。わたしね、こういうのやってみたかったんだ。付き合わせてゴメンね」
と彩香はそう言った。
だけどそれは、携帯電話を持っていないぼくへの彩香の配慮だった。
そんな彩香の優しさがぼくは嬉しかった。
ぼくは彩香との関係を大切にしたいと思ったし、彼女もきっと同じ思いだったに違いなかった。
時にはちょっとしたすれ違いや思い違いもあった。
言葉だと伝えられない思いも、文章だと不思議と素直に表現する事が出来た。
交換日記を通して、ぼくと彩香の絆は、更に深く結ばれていった。
ぼく達は間違いなく真実の愛の中にあった。
彩香のデビュー作『あなたが傍にいるから』は、ぼくと彩香の純愛物語そのものだった。
新人賞受賞半年後には、表題作ともなった『あなたが傍にいるから』は五つの短編集として発表された。
売れ行きは上々だったが、それに相反して、ぼくと彩香の関係は次第にぎくしゃくし始めていた。
更にその半年後には長編を刊行した。
その頃になると、月に一度会えるか会えないか……ぼく達はそんな間柄になっていた。
「お待たせしました」
とカバーを掛けてもらった新刊を片手に、愛花が書店から出て来た。
「立花彩香って、春木さんと同じ国立大学なんですよね。しかも同学年ですね? 面識はありますか?」
一瞬、間があった。
「いや、ない」
「そうなんですか? それにしてもこの人かなりの美人ですね」
愛花は表紙の裏のプロフィール欄の顔写真を見ながらそう言った。
「どんな人なのかな。会ってみたいな」
「もしかして、おれに近付いた理由の一つがそれなのか?」
「まさか。違いますよ」
愛花は軽く笑った。
「わたしのこと、どれだけ計算高い女だと思っているんですか?」
「どうだっていいよ、そんなこと……」
駅の改札を通過したのを機に、ぼくは言葉を切った。
そう、どうでもいい事だった。
愛花が二股掛けようが掛けまいがどうでもいいんだ。ぼくを巻き込まなければ何の問題もないのだ。
愛花が手に持った彩香の書いた本なんて、尚更どうでも良かった。
電車が駅に入ってくる気配があった。皆が急ぎ足になった時、愛花がぼくの手を取った。
「ねぇ春木さん」
「電車が来たよ。おれはこれに乗るから」
「初詣一緒に行ってくれますか?」
「急いでいるんだよ」
「ごめんなさい。後でメールします。お疲れさまでした」
ぼくは愛花を振り返ることなく、人の流れに飲み込まれるまま電車に乗り込んだ。
「大輔、帰ったの?」
玄関の直ぐ左のキッチンに立つ母が振り向いた。
「ただいま」
ぼくは靴を脱ぐと、すぐ右側のアコーディオンカーテンを開けて、三畳程のスペースに入った。
ちょっとした物置きや収納が、このスペースの本来の用途なのだが、ぼくは自分の部屋として使っている。
持家を手放して、二DKのこの団地に引っ越してきた時、両親は二つある六畳部屋の一つをぼくに与えようとしていた。
だけど、一つをリビングとして使ったら、現在ぼくが自室として使っているこの狭い空間が、両親の寝室となってしまうのだ。
「ぼくは小学生だからこの部屋で充分だよ」
その当時は本当にそう思ってこのスペースを受け入れて来た。
中学生になり、身長も百七十を超えて来ると、流石に狭いと感じた。
見かねた両親が再三部屋を換えようと言って来たが、ぼくは大丈夫だと笑って見せた。
でも、口先だけでは両親も納得しない。
デッドスペースをなくして有用なレイアウトを考案した。
部屋は狭かったが、幸い高さがあったので、学校の資材置き場でもらってきた木材で上段にベッド、その下にクローゼットを作った。
空いたスペースに机を潜り込ませる事で、部屋の有効利用に成功したのだ。
(この部屋で十五年も頑張って来たんだな)
そう思うと、感慨深いものがあった。
――― ツツ ツツ ツツ ―――
年越しそばを食べて終えた時だった。LINEメールの着信音が鳴った。
愛花からだった。
メールではなく通話だった。
『今よろしいでしょうか?』
『問題はないけど、電話をかけて来る時間じゃないぞ』
机上の目覚まし時計は、もうすぐ日付けが変わろうとしていた。
『申し訳ありません。夜分に失礼かと思いましたが、急ぎの要件があったので、お電話させていただきました』
『急ぎの要件って?』
『塾のアルバイトをお願いしたいのです』
『塾のアルバイト?』
『春木さんは先程、割のいいバイトを探しているって、話していましたよね』
『ああ』
『あるんですよ、割のいいバイトが』
『怪しいバイトとかじゃないだろうな』
『真っ当なアルバイトですよ。ウフフフ』
と電話の向こうで愛花は笑った。
愛花には
その弟・隆二の通う塾の担当講師が、二日前に交通事故に遭って、しばらく休職せざるを得なくなったらしい。
ここ数日は年末年始の休みで支障はないのだか、一月四日から始まる冬季集中講義までに、臨時講師を見つける目処が立たないから、困っているとの事だった。
『弟が通っている塾の塾長さんに春木さんの名前を出したら、明日にでも連れて来て欲しいと依頼されました。塾長は春木さんと同じ大学出身の方で、春木さんより二つ先輩にあたる方です』
『それって……もしかして』
ぼくの脳裏にある人物の顔が
『多分、春木さんが今、心に思い浮かべている人だと思いますよ』
『峰山さんか?』
『はい、そうです。会って頂けますよね』
愛花の声は勝ち誇ったように上ずっていた。
愛花のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
(気に入らないな)
だけど、円滑な学生生活を送る上で峰山さんには少なからず恩があった。
それらの
愛花のあざとさはやっぱり気に入らないと思ったが、峰山さんの依頼をバッサリ斬り捨てる事も出来なかった。
『分かった』
仕方なくぼくは愛花と会う約束をした。
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