第3話 彼氏との別れ





(嫌なことを思い出したな)

 忘れていた…いや、忘れようとしていた苦い思い出だった。


 ぼくはその日のシフトの間中その事が心から離れなかった。

「どうしたんだよ、春木君。今日はボーッとし過ぎだよ」

 シフトが終わった後、加山店長に注意された。

「すいません。以後気を付けます」

 ぼくは軽く頭を下げた。


 ぼくはアルバイトではあるがカテゴリーマネジメントを任されていた。

 カテゴリーマネジメントとは、消費者に対する洞察力を駆使して、商品構成と販売促進を含めた売り方を最適化するマネジメント技法である。

 ぼくは店長の補佐と言う形で、店舗内の商品をすべて管理していた。


 だけどその日ぼくは、いくつかのセール商品の値段の差し替えを怠ってしまったのだ。

 朝一番の客にそれを指摘され、早々に訂正したものの、

「チラシ通りの価格になっていなかった」

 と購入後の客からクレームの電話がいくつか掛かって来た。


「気配り上手な春木くんらしくもないね。でもなんか安心したよ。完全無欠ってイメージだったから、春木くんでもミスすることあるんだね」

 相良琴美にそう言われ、ぼくは苦笑いを浮かべた。

 それは彼女なりの気遣いだったのかもしれない。


 ぼくは何の取り柄もない男だけど「おまえは気配り上手だよ」と時々言われる。

 そのせいなのだろうか。店内を巡回すると困った様子の人をよく見かける。

 気付かなかった振りをすればやり過ごせるのだが、ぼくはお客さんの物言いたげな視線を無視出来ずに、つい声を掛けてしまうのだ。

 その殆どはお年寄りの方だった。

「何かお困りでしょうか?」

 そう声を掛けると、お客さんは救われたような笑顔を見せてくれる。


「この魚のワタを処理して欲しいのよ」

「棚の上の物が取れないんだよ」

「マヨネーズは何処かね?」

「この白菜半分もいらないんだけど、少量はないの?」


 だいたいがそのような要望だ。


 他にも、買い物かごを一杯にして持ち歩く人にカートを持って行くととても喜ばれるし、間もなく値引き札が張られる時間帯に商品を手にする人には「もう直ぐ半額になりますよ」と耳打ちしてあげるのだ。

 もっともこれはお店にとっては損失になるのだが……。



 九時を過ぎたクリスマスの夜の街中は、いつもより人通りは多かった。

「一年になるのか……」

 彩香と別れてからである。

 あの瞬間は何もかも嫌になって投げ出してやろうとも思った。


 でも、貧しくてもぼくを大切に育て、苦しい家計から遣り繰りして大学まで行かせてくれた両親を思うと、踏み止まる事が出来た。

(あいつは、どうしているんだろうな…)

 彩香を思い出しそうになって、ぼくは首を横に振った。

 苦い思い出なのにいまだに胸の中から消えてなくならない。未練は断ち切った筈なのに……。



 駅に向かって歩き出した時、

「別れるって、何だよ!!」

 商業ビルの間の人気の少ない路地から、怒鳴り声ともつかない男の声が聞こえた。

 黒い人影がもみ合っているのが分かった。

 暗くてよく見えなかった。

 道行く人の多くは声のした方を向きながらも、歩みを止めなかったが、ぼくのように足を止める者も少なからずいた。

(関わりたくない)

 そう思い足を一歩前に出した時、走り出した一つの影が店舗の照明を帯びてその姿をさらした。

 それは園宮愛花だった。


「まてよ、愛花!」

 追いかけて来たもう一人の影も照明を帯びた。

 愛花と同い年くらいの長身のスポーツ刈りの男子だった。

「さよならって何だよ。おれおまえに何かしたのかよ」

「ごめんなさい。そんなんじゃないの。わたしヒロシのこと大好きよ。でも、この先ずっと付き合っていけるとは思えないの。だから、ここでお別れよ」

「訳わかんないよ! 一体何がどうなってんだよ」

「わたしね、結婚する人を見つけたの」

「結婚? 何言ってるんだ? お前まだ高校生だぞ」

「高校生が真剣に結婚を考えて何が悪いの? 恋だけで終わる関係じゃなくて、その先まで見据えた考えの何処がいけないのよ」

「待てよ。恋だけで終わる関係って、そんなこと勝手に決めんなよ。おれのことちゃんと見ろよ!」

 少年の右手が愛花の腕をつかんだ。


 目に涙を浮かべる少年に対して、愛花はりんとした眼差しで向き合っていた。

「ごめんなさい。わたし、中途半端はしたくないの! 告白した相手の男の人には誠実でありたいの! だからここでお別れよ!」

 少年は愛花の言葉に押されたように動きを止めた。

 肩を掴むその少年の手を愛花は丁寧ていねいに取り外した。

「ヒロシ………さよなら」

 愛花は少年に背中を向けると駆けだした。

 その瞬間、崩れた愛花の横顔を、ぼくは見逃さなかった。


「待てよ、愛花……」

 結婚という言葉に押されたのか、少年は足を止めたまま力ない声で愛花の背中を見送っていた。

 行き交う人の流れが元に戻っていた。 

 殆どの人はあざけりともつかない笑いを漏らしていたが、ぼくは身が詰まる思いだった。


 肩を落とした少年は商業ビルのコンクリート壁を二度ほど殴った後、背中を向けてトボトボと歩き始めた。

(別れるって、あの少年のことだったのか……)

 ぼくはその少年の姿がビルの曲がり角に消えるまで、目を離す事が出来なかった。




 翌日のシフトは愛花と一緒だった。

「彼とは別れてきました。わたしには春木さんしかいませんから」

 爽やかな笑みを浮かべる愛花に、ぼくは嫌悪感しか抱けなかった。

 名前も知らないあの少年の後姿が頭をもたげた。


「わたしに障害となる物はもうありませんから、付き合ってくれますね」

 ぼくは大げさに首を横に振って見せた。

「園宮の相手なんて真っ平だ」

 愛花の瞳が驚いたように見開かれた。

「他に目ぼしい相手が出来たからと言って、今まで付き合っていた相手を簡単に切り捨てるような女なんてごめんだね」

 愛花は目を逸らした。


「ずいぶん酷い言い方するのね…。もっと優しい人だと思ってたのに」

(何勝手なこと言ってるんだ!)

「酷いのはどっちだよ。付き合っている彼氏をあんな形で振るなんて」

「あんな形って……? 見ていたんですか?」

 愛花が再び目を大きく開いた。


「みんな見ていたさ。大通りに面した裏道で、あんな痴話喧嘩していたら気が付かない方が不思議だろ?」

 愛花の目がホワイトボードのシフト表に動いた。

「そういうことね」

 と納得したように頷いた。

「春木さんのシフトが終わった時間だったのね」

「率直に言って園宮は可愛いと思う。でもな、顔やスタイルがいいからって何でも通る世の中じゃないんだよ。一番大切なのは信頼関係だ」

「春木さんわたし…」

「とにかくだ!」

 何か言いかける愛花にぼくは強く言葉を被せた。

「園宮を信用することは出来ない」

 それだけ言うと、ぼくはスタッフルームの扉を押して店舗フロアーに入った。



 時間内は、店舗スタッフのぼくと、調理及び緊急レジ係の愛花との間に接点はなかったが、シフト開始が同じだと大体にして終わりも同じだった。

 トイレで時間を潰して店の裏口を出たつもりだったが、愛花は体を震わせて待っていた。


 ぼくを見止めると愛花は頭を下げてから歩み寄ってきた。

(あれだけのこと言われたのに……いい根性しているよ)

 愛花のそんな強かさもぼくは気に食わなかった。


「お願いです。ちゃんと話を聞いて頂けませんか?」

 真っ直ぐにぼくを見つめる愛花の瞳だった。

(好きでもない男にでもこんな眼差しを向けられるのか……女って怖いな)

 ますます嫌悪を募らせた。


「なんでだよ」

「えっ?」

「園宮はヒロシって男の子が好きなんだろ? なのになんで結婚相手がおれになるんだよ。おかしいだろ? それ」

「それについてもちゃんとお話しします。だから時間をください」

(やはりそうなるか)


 北風がヒューと吹き付けた。

 (寒い)

 とにかく温かい所に行かなければ……。

 就職も決まったし、時間に追われるものは何もなかった。

 降り掛かったわざわいだが、ケリは付けるべきだと思った。

 財布の中には一万円札一枚と千円札が数枚入っていた。

 目の前に見えるサイゼリアは、晩御飯の時間帯だから混雑しているだろう。


 何処に入ろうかと辺りを見回していると、

「この前のあのお店…カルチェラタンでもいいですか?」

 園宮のスカートから覗いている生足が、寒そうにクネクネ動いていた。

「分かった。そこにしよう」

「ありがとうございます」

 そう言うと歩き出すぼくの左隣りに、愛花はさり気無く肩を寄せて来た。

(あざとい)

 ぼくは何も言わず再び距離を取った。

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