第2話 裏切り




 

 25日のシフトは、愛花と入れ違いだった。

「本当に、昨日はごめんなさい!」

 愛花は深々と頭を下げた。

「テンパってしまって、その場にいられなかったんです。ご馳走していただいたのに、手も付けないで飛び出したこと、深くお詫びいたします」

「ああ、もういいよ。みんなが見ているから頭を上げなよ」


 スーパー近くの裏通りとはいえ、繁華街の一角なので、それなりに人通りはある。

「あの、少しお時間……」

 と愛花が言いかけた時、相良琴美さがらことみが駆け寄ってきた。彼女も愛花と同じシフトだった。

「春木くん、昨日はごちそうさまでした」

 と馴れ馴れしくぼくの腕を取った。

「春木くんってモダンないい店知ってるのね。春木くんが声かけてくれなかったらわたし、一人きりのクリスマスイブになっていたわよ」


 そうなのだ。

 愛花が店を飛び出した後、窓越しに見かけた琴美に声を掛けて食べるのを手伝ってもらったのだ。


「ねえ、昨日本当は誰を誘うつもりだったの?」

「そんなんじゃないよ。一緒に入った連れに急用が出来て飛び出していったんだよ。これどうしようかと思った時、通りすがりの相良を見つけて声を掛けただけだよ。昨日もそう話しただろ?」

「本当かな? でもまあいいか、ロハだもんね。美味しかったわ、あの店。また誘ってね。もちろんロハで。アハハハハハ」

 高らかに笑う相良に、ぼくは苦笑を見せるしかなかった。


「あら、愛花ちゃんどうしたの? ああ、わたしと同じシフトだったよね。今終わった所なんだ。お疲れ様」

 正社員の相良は商品管理で、料理の出来る愛花は調理室だった。

「あ、はい。お疲れさまでした」

「これから彼氏どデートなんでしょ? この前見たわよ。サンプラ歩いているとこ。背が高くてかっこいい彼氏ジャン! 今日はクリスマスデートだから何が起こるか分かんないわよぉ。キャハハハ」


 マイペースでただ明るい相良はぼくにとっては苦手な相手だったが、愛花にとってもそのようだ。

 居た堪れなくなったぼくは、苦笑いを浮かべる愛花を残して、店舗のスタッフルームに入った。

 ドアを閉めようとするぼくの後を愛花が追いかけて来た。


「彼氏いること黙っていてごめんなさい。でもその人とはキスしかしてませんし、別れるつもり…いえ、今日サヨナラしてきます。だから、わたしのこと嫌いにならないでください」

「ちょっと待った。付き合ってる彼氏がいるんならそのままでいいじゃないか。横恋慕みたいなこと、おれはイヤだからね」

「いえ、ちゃんとケジメは付けてきます」


 背中を向けると愛花は駆け出していった。

「おい、園宮! ちょっと…」

 と言いかけて止めた。

 ドアのガラス越しに愛花の背中を探すも、人混みに紛れてその姿はかき消されていた。

 ぼくは気分が悪かった。

(安定の上級公務員だからおれを選ぶと言うのか)

 嫌な思い出が胸に込み上げて来た。

(それってまるで、立花彩香たちばなさやかと同じじゃないか)



 立花彩香……それは大学三年まで付き合っていた初恋の彼女の事だ。

 艶のある長い髪と端正な顔立ちは、誰もが振り返る美少女だった。

 優しくて明るいクラスの人気者だった彩香に、中学二年の時、ぼくは恋に落ちてしまった。


 三学期になった。

 そして二月に入った頃、もう直ぐクラス替えがあるのを焦ったぼくは、話もした事のない彩香にラブレターを出してしまった。

 返事は来なかった。

 教室で会っても一瞥いちべつするだけで今までと何の変りもなかった。 

(やっぱりダメか。でも、無視はないよな)

 そう思いつつ迎えたバレンタインデーで、彩香がチョコレートをくれたのだ。

 その中に手紙が入っていた。


   わたしも春木君のことが好きです。

   よろしくお願いします。


 短い文章だったが、それで十分だった。

 ぼくは舞い上がった。

 クラスのマドンナがぼくを振り向いてくれたのだ。

 何も言うことはなかった。

 

 翌日、先に来ていた彩香の傍にぼくは近付いた。

「あのさぁ、昨日のアレ、間違いとかじゃないよな」

 我ながら変な質問をしたなと思ったが、言ってしまったものは仕方ない。


 彩香は照れたように笑った後、小さくかぶりを振った。

「春木君こそ、本気なの?」

「当たり前だろ。こんなこと冗談なんかで出来ないよ」

「だよね。そうだと思ったけど、ちょっぴり怖かったの。わたしだけが舞い上がっていて、からかわれていた、なんてことがあったらわたしきっと、立ち直れないなって思って、答える勇気を持てなかったのよ。だから、何か切っ掛けが欲しくて、バレンタインデーまで返事を伸ばしていたの。十日も遅れてごめんね」

「いや、それはいいよ。確かにもうダメかと諦めかけてはいたけどね」

「これから、よろしくね」

 彩香が右手を差し出した。

「ああ、こちらこそ」

 初めて握るさやかの手は、少し冷たかった。


 そんな感じで始まった交際は、時を重ねながら、順調に心を深めていった。

 同じ高校に進み、入学式して間もなくファーストキスを交わした。

 読書好きだったぼくたちは文芸部に入り、彩香は小説を書くようになった。

 高校では同じクラスにならなかったけど、ぼくと彩香はいつも一緒だった。

 ぼくたちは間違いなく愛し合っていた、と思う。


 進学も同じ国立大学だった。

 ぼくはその頃から安定の公務員を目指していたから法学部に入ったが、彩香は文学部だった。

 それでもぼくたちのキャンパスライフは順調だった。

 夏休みに二人で出かけた初めての旅行で、ぼくと彩香は結ばれた。


 ぼくには疑うものなんて何もなかった。

 ぼくと彩香はとても気が合っていたし、喧嘩なんかしなかった。

 だけど、何事もなく平穏に過ぎるかと思っていた二年の春、彩香が投稿した小説が入選した頃から、少しずつ歯車が噛み合わなくなってきた。


 同じ大学敷地内でも、学部が違えば講義も違う。高校とは違ってキャンパスの広さは十倍以上だ。

 捜し歩くよりメールした方が早いのだけど、メールを入れてもなかなか既読にならないのだ。

 電話を掛けても電話を取れないメッセージが流れる事が多くなっていた。


 会う機会が少なくなっている不安はあっても、いざ会うと彩香はいつもの笑顔を見せてくれる。その瞬間、いだいていた全ての不安は払拭された。

 いや、払拭された振りをしただけなのかもしれない。


(大丈夫だ。彩香は忙しいだけだ)

 モヤモヤとしたものが胸に支えていても、

「出版社との打ち合わせなの。出版に当たって色々書き足さなきゃならない所があるから時間がないのよ。ごめんね」

「いや、彩香の夢が掛かっているんだ。おれのことは気にしないでいいよ」

 それしか言えなかった。忙しい合間を縫ってなんて義務のような押し付けをすれば、それはもう恋人の関係とは言えなかった。

 ぼくは自分の心を押さえ込むしか出来なかった。


 月二回のデートが月一になり、それがやがて二ヶ月に一回となった。

(これでも我慢しなきゃいけないのか? これっておれのわがままなのか?)

 二ヶ月の空白が出来たクリスマスイブのその日、流石にぼくの我慢も限界に来ていた。

 何か文句を言ってやろうと電話を掛けると、ぼくが何か言う前に、

「明日会えるかな? やっと時間が取れたの」

 いつもの明るい声に、ぼくはまたもや、口元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 

 十分前に到着した夕映えの公園に、彩香はすでに来ていた。

「久しぶりよね」

 相変わらず彩香は明るい。

 肩まで伸びた黒髪がそよ風に揺らいでいる。

 心に抱えたすべてのモヤモヤをなかった事に出来そうだった。


「何処に行こうか?」

 ぼくがそう尋ねた時、彩香は笑顔を崩した。

「別れましょ、わたし達」

 ぼくは動く事も返事する事も出来なかった。

「大ちゃんだって、分かっていた筈よ」


 ぼくは無言だった。

 意味もなく両手の指を絡ませたり外したりしていた。

「わたしね、有名な作家の先生の書生になったの」

「そう」

 やっと出た言葉がそれだった。

「この場合の書生ってわかる? 先生の仕事場に泊まり込んで、先生のお世話をするってことなのよ」

「………!」

「それ以上言わなくても分かるよね」

 彩香は夕日に目を細めながらぼくを流し見た。

「わたし作家になりたいの。わたしのように凡庸な才能しかない者が作家になるには、後押ししてくれる人が必要なのよ」


 ぼくは返す言葉か見つからなかった。

 震える指先をズボンのポケットに突っ込んだ。

「だから、ごめん。大ちゃんのことは一番好きよ。でもわたしは自分の夢を叶えたいの。そのためにだったらわたし……」

 彩香は言いかけた言葉を濁した。

「裏切りじゃないか……こんなの…」

 やっと出た言葉だった。

「分かってる。だから、別れるしかないの」

 ぼくはもう口にする言葉が見当たらなかった。

 怒り、悲しみ、屈辱、そういった感情が体のあちこちから溢れ出ていた。

 それなのに、何よりも彩香がいとしかった。


「さよなら」

 小さな声でささやくと、彩香はぼくの横を通り過ぎて行った。

 ぼくは斜め下に視線を向けたまま動けなかった。

 何も言えなかった。

 溢れそうになる涙を必死になってこらえた。

(泣くもんか)

 ぼくの男としての意地だった。  

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