第5話

「ごめんごめん、お待たせ。」約束の時間から5分ほど遅れて徹が店に到着した。先に席についていた私は黙ってメニューを差し出した。以前何度か徹に連れてきてもらった、イタリアンレストラン。石窯で焼くピザがおいしいと人気の店だが、平日だからか店内は閑散としている。

「春子、もう決まった?」そう言う徹は既にドリンクメニューに視線を落としている。徹はいつだって決断が速い。自分の欲しいもの、したいことが、考えずともわかっているのだ。いつも、悩んだ末に「決めていいよ」と相手に委ねてしまう私とは違う。

「うん、決まった。」メニューを閉じた私に「珍しいじゃん。腹減ってんの?」と徹が笑い、店員を呼ぶ。徹がグラスの赤ワインを進めてきたが断った。お酒は強くない。アルコールのせいという逃げ道を作りたいという衝動が一瞬沸いたが、踏みとどまった。


「で?」運ばれてきたグラスに口をつけながら徹が言った。

「…で?」

「話、あるんでしょ。どうぞ。」決して急かされてるわけじゃない。ただ、私が言い出せないから聞いてくれているだけだ。必死にそう思おうとするが、徹の目が見られない。

「何か言ってくれなきゃわかんないよ」私が生徒に言うお決まりのセリフが、徹の声で脳内に再生される。何度も、何度も。分かってる。分かってても、言えないことだってあるんだよ。

 黙っていると、店員が前菜のカルパッチョを運んできた。均等に並んだタイの切り身が、照明に照らされて淡く赤色に光る。「火星みたい」心の中で思っただけのつもりが、声に出ていた。

「火星?」徹が眉をひそめる。思いがけず発した言葉だったが、「火星」と口にすると、少し勇気が出てくる気がした。「松本さん、ちゃんと、かけがえないっすか?」脳内の徹の声をかき消すように、あのスーパーの店員の声が響く。その声が消えないうちに、急いで口を開いた。

「火星に引っ越さない?」

「は?」徹の声にいら立ちが混じったのに、気づかないふりをして、続ける。

「私が、火星に引っ越したいって言ったら、どうする?」

「意味わかんねー、何が言いたいの。」

「いいから、答えて。」私が冗談で言っていないことに気づいたのか、徹も一応考えてくれるようだった。眉間にしわを寄せながら、タイのカルパッチョを口に運ぶ。一枚、二枚。三枚目を赤ワインで流し込んだところで、口を開いた。

「うん、無理だな。春子が何を言いたいのかいまいちわかんないけど、無理だよ。環境が変わるのって、ほら、響とか茉莉にとって良くないだろうし。」そして呆れたように、でも少し心配そうに、「こういう返事で合ってる?」と聞いてきた。

「うん。ありがとう。」本心だ。十分すぎるほど十分だった。

「徹、あのね、私、結婚できない。」意を決して言うはずだった言葉が、驚くほど簡単に出てきた。いつの間にか、店員の声は消えている。私の脳内は静かな、宇宙のようだった。

「…なんで」徹の声は落ち着いていたが、目はまるで空中の埃を追うようにせわしなく泳いでいる。予想外の言葉に混乱しているのだろう。

「徹が結婚したいのは、私じゃないでしょ?」

「…」

「私じゃなくて、響くんと茉莉ちゃんの母親になる人、でしょ?」

「お待たせ致しました、マルゲリータでございます」言い終わるか終わらないかのところで、目の前に湯気を立てたピザが運ばれてきた。

「それってさ」

テーブルの上の、空になった皿をテキパキと片付けていく店員をよそに徹が話出した。

「それって、そんなにいけないこと?」徹のとがった声に、店員が身を固くしたのが分かる。ややひきつった笑顔で、「失礼いたしまーす」と去っていった。

「確かに、俺は、春子に、新妻じゃなくて、あいつらの母親になってほしい。でも、俺が春子のことを好きなのも本当だよ。春子だから、あいつらの母親になってほしいんだよ。」

「でも、それは私じゃなくても…」

「春子じゃなくても?春子じゃなくてもいいって?」徹がおもむろに手に取ったピザから、トマトソースが零れ落ちる。テーブルに敷かれた白いクロスに赤いしみがつく。

「それって重要?俺、春子でいいって言ってるじゃん。それでも別に、良くない?大人になろうよ。」

「………たい」

「え、何?」徹が聞き返してきたことで、自分が声を出していたことに気づく。

「私は」今度は、はっきり、徹の目を見て言った。

「私は、かけがえなくなりたいの。」

「かけがえなく、なりたい」繰り返すと、呪文みたいだ。

「ごめん、何それ分かんない」徹の指が一定のリズムでテーブルを叩く。いらだっている時の癖だ。いつもなら私を焦らせるそのリズムが、なぜだか今、心地よく感じた。とんとんとんとん。鼓動のスピードが遅くなっていく。ふう、と小さく息を吐いてもう一度、徹と目線を合わせる。

「徹は間違ってないよ。響くんと茉莉ちゃんのお母さんを探すのが、いけないことなわけない。大人になるべきっていうのも、その通りなんだと思う。」

「だったら…」

「だけど、」リズムを刻んでいた徹の指が止まった。かすかに徹の瞼が上がったのが分かる。私が、徹の発言を制止したことに驚いているようだった。そのことに対する、多少の高揚感と、高揚感を覚えたことへのうしろめたさとを吐き出すように続ける。

「ごめん、まだ、もうちょっとだけ、期待したいんだ。私のことをかけがえないって思ってくれる誰かが現れるのを。私のためだけなら何でもできるって、私しかいないって思ってくれる人を、もうちょっとだけ、待ってみたいの。」あのスーパー店員みたいに、と心の中で呟く。

「そんな人が現れるかなんて分かんないけど、でも、いるなら会いたい。会って、自分のことをかけがえないって思いたい。その人にあなたはかけがえないよって、言いたい。」

「何だよそれ、おとぎ話かよ。」

「そうだよ。」

「は?」徹が、狐につままれたような、のお手本のような表情になる。この状況で不覚にも笑いそうになるのをこらえて言った。

「今まで言えなかったんだけど、私、おとぎ話の世界から、王子様を探しに来たの。でもそれはね、」なるべく、明るく、軽くなるように気を付けて、声を出した。

「徹じゃない。」

数秒間、あるいは数分間の沈黙が訪れた。思えば今日初めて二人とも黙っている。静かだったはずの店内は、いつの間にか満席になり、アルコールの入った団体客の無駄に大きな笑い声が響いていた。

「分かった。」そんな店内の雰囲気とはあまりにもかけ離れた、氷点下の声で、徹が静かに言った。

「分かんねえけど、分かりたくもねえけど、分かったよ。もういいよ。じゃ、今までありがとう。」まだ半分ほど残っていたワインを一気に飲み干し、次いでまだ皿に残っていた一切れのピザを口に突っ込み、「ふぉれふうぇふぁふぁふぇ!」とテーブルに一万円札をおいて、去っていった。嵐のように。

あまりの展開の速さに追いつけていないだけかもしれないが、自分でも気持ち悪いくらいに冷静だった。テーブルについてしまったトマトソースのシミをナナプキンで拭い取り、店員を呼んで、ノンアルコールのカクテルを頼んだ。そのまますぐに会計を済ませて帰ってもよかったのだが、できる限り、徹が置いていったお金を余らせたくなかったのだ。そして、もう一つ。そのカクテルの名前が、シンデレラだったのだ。先ほど自分が言ったことを思い出す。「おとぎ話の世界から、王子様を探しに来たの」どうしてあんなことを言ってしまったのか?きっとあのスーパー店員に変な話を聞かされたせいだ。あの店員に教えてあげたい。多分、彼女さん、何も考えてないんだと思いますよ。だって、私だって、こんなに平然とおとぎ話から来ただなんて言えちゃうんですから。だから、気にする必要ないですよ。と。運ばれてきた綺麗なイエローのカクテルを眺めながら、ふと考える。徹はどうだろうか。変なことを言った私に呆れているだろうか、怒っているだろうか。きっともう会うことはないけれど、でも、ほんの少しでも、あの店員みたいに、悩んでくれたら、いいな。今更浮かんだどこかのラブソングで聴いたような言葉に一人苦笑する。ゆっくり口に含んだ黄色い液体は、甘ったるくて、なんだか懐かしい味がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る