第4話

「うわ、松本さんじゃないすか!」仕事帰り、いつものスーパーで洗剤を選んでいると、後ろから声をかけられた。振り向かずとも、この前の店員だとわかる。「どうも」と会釈すると、例のポメラニアンみたいな人懐っこい笑顔で「ありがとうございました!」と礼を言われた。

「私なんかお礼されるようなことしましたっけ?」

「火星の話っすよ、彼女の。」

「あー、あれですか。いえ、私は何も。彼女さん、返事は?」

「いや、それが!覚えてなかったんすよ、彼女。火星に引っ越さないかって言ったこと。ひどくないすか?俺が。引っ越してもいいよって言ったら、何で?って聞かれちゃって。まあでも、言えてよかったっすよ、とにかく。だから、ありがとうございました。まあ、めちゃめちゃ気になりますけどね。なんかの暗示か?とか。」店内だというのにしっかり90度お辞儀をするものだから、他の客が何事かとこちらに視線を送るのが分かる。慌てて「やめてください、顔、あげてください。」と促した。

「いやー。しかし、彼女さん、幸せ者ですね。」私が思わず呟くと、

「いいっすよ、そういうお世辞とか。俺なんかそんな。」と照れたような決まり悪そうな顔で傷んだ茶色い髪を梳いた。お世辞なんかじゃない。本心だった。私は今、心の底から、この人の彼女が羨ましかった。もし、私が徹に、「火星に引っ越さないか」と言ったとして、彼はきっと、こんなに真剣には取り合ってくれないだろう。「何だよそれ」と軽く流されるのが目に見えている。こんなに真剣に、向き合ってくれる人がいる彼女さんが、だから心底羨ましかった。

「いいえ、本当に、幸せだと思いますよ。彼女さん。」精一杯の大人の微笑みを作って、もう一度言った。

「ありがとうございます。だといいんだけど。松本さんは?」

「え?」

「幸せですか?今。」朝ごはん食べましたか?みたいな軽い感じで聞かれたので、反射的に「はい」と答えそうになって、ぎりぎりのところで止まる。

「幸せ、かなあ。」曖昧に返事して、やっぱりYESと答えておくべきだったと後悔した。質問はちょっと、いやかなりずれてはいるが、そういう世間話のつもりできっと聞いたのだろう。会ってたった二回のおばさんが幸せかどうかなんて、誰が興味あるっていうんだ。そう思ってちらっと店員を見上げると、目が合った。その目が、真っ直ぐに私を見ているころに気が付いて、どきりとした。久しぶりだった。生徒や同僚の教師は、古典の松本先生として、私に話しかけ、私の話を聞いていた。響くんは茉莉ちゃんは、父親の恋人、としての私と関わろうとしていた。私を見ていてくれるはずの徹は、私のことを、子供たちの母親となりうる人、としていつからか扱うようになった。でも、この人は違う。この人は、私をただの松本さんとして見てくれている。そう思ったら、後はもう、言葉が自然と出てきた。

「私、松本じゃなくなるかもしれないんです。プロポーズされて。」

「ああ、おめでとうございます。」

「でも、自信なくて。うまくやっていける自信、ないんです。求められてることに、応えられる自信がないんです。」こんなこと、誰にも話したことなかった。それをよりによって、少し言葉を交わしただけの、若者に。

「まあでも、頑張んなきゃですよね。期待に、応えないと。」そう言って、いつの間にか意味もなく手に持っていた食器用スポンジを棚に戻した。聞かれてもないのに自分の話をしてしまった恥ずかしさをごまかすように、せめて大人らしいことを言おうとした自分が、恥ずかしかった。

「求められてることって」それまで黙って聞いていた店員が口を開いた。

「はい?」

「求められてることって、言いましたけど、松本さん。」

「言いました。」

「それって、松本さんにしかできないことなんですか?松本さんじゃなきゃいけないことなんですか?松本さんが、頑張んなきゃいけないんですか?」

「……」

「あ、ああー、ごめんなさいすいません」勢いに押されて黙ってしまった私に、店員が慌てて頭を下げた。

「いや、俺なんか、気になったことわーって喋っちゃうの癖で。しかも俺目つき悪いじゃないすか。だから怒ってると思われるんですよねよく。すいません怒ってるとかじゃなくて。じゃなくて、俺が言いたいのは、」頭をかきながら必死に言葉を探す店員の姿に、なぜだか涙が出てきた。歳のせいだろうか?確かに最近今までなんとも思わなかったはじめてのおつかいで泣いてしまうようになったけど。いや、違う。店員にばれないように急いで涙をぬぐう。幸い当の本人はいまだ頭を抱えて悩んでいる。

「だから、俺が言いたかったのは、」少々長いシンキングタイムを経て話し始めた。

「言いたかったのは、どうせ生きてるなら、できる限りかけがえなくいた方がいいってことです。」

「かけがえなく、いる?」

「自分にとって、一番かけがえのないのって、自分じゃないすか。かけがえないっつーか、かけがえようがないっつーか。自分って自分しかいないから。」かけがえない。掛け替えない。無くなったら、他に交換しようのない、唯一無二の存在。

「そんな、かけがえない自分を、かけがえないと思い続けるのって、実際、結構難しいじゃないすか。私なんて、とか俺なんか、とか思っちゃう。でも、いるんですよ、どっかに。自分のことをかけがえないと思ってくれる、自分以外の誰かが。俺にとって、それは、彼女なんすよね、恥ずいっすけど、ちょっと。」恥ずいことを恥ずそうに、でも堂々と口にできるこの人がまぶしくて、羨ましくてたまらなかった。

「だから、俺、彼女のためなら正直何でもできるんすよ、マジで。火星にも行くし、もしあいつが吸血鬼なら、血吸われてもいい。だって、あいつにとって、俺はかけがえないから。あいつといる限り、自分がかけがえなくいれるから。すいません、分かりますか?俺が言ってること。俺頭悪いから、大丈夫かなって。」

「わかります。……半分くらい。」正直に言った。それがせめてもの誠実な態度だと思って。店員は「十分っす。」と笑った。

「だからまあ要は、期待に応えるために頑張るとか、そんなんは松本さんの勝手っすけど、その、求められてること?っていうのが、松本さんにしかできないことじゃないなら、松本さん以外にかけがえのあるものなら、俺は、違うと思う。」伏せていた目をふと上げると、目が合った。店員は、目をそらさず、言った。

「松本さん、ちゃんと、かけがえないっすか?」数秒間、沈黙になった。何か言わなきゃ、そう思うのに言葉が出てこない。結局そのまま黙っていると、

「ま、そんなかんじっす。」わざとらしくぶっきらぼうに話を締めくくって、「じゃ、すいません、ちょ、呼ばれたんで。」と店員は店の奥へと消えていった。台風のように去っていった店員に、一人残された私の心の中は、台風の後のように晴れ晴れしていた。

いつもの洗剤をかごに入れ、鞄からスマホを取り出した。開くと、徹から、「今日は帰れそうだから、夕飯大丈夫」とメッセージが入っていた。そのトーク画面を開き、新たなメッセージを送る。「今日、夜話せるかな。」すぐに既読が付き、「わかった。じゃあ仕事終わったら連絡する。」と返信が来た。相変わらず返事が早いなと苦笑する。定時に帰れるなら、あと1時間ほどか。久しぶりの二人での食事を想像するとかすかに心臓が疼いた。それに今日はいつもとは違う。もしかしたら、もう、元には戻れないかもしれない。なるべく、穏やかに、平穏な日々を過ごせるよう努めてきたが、それももう、終わってしまうかもしれない。それでも、同時に、嵐の後の空を楽しみにしている自分がいた。

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