第2話
「ああ、そうっすよね。ホントすいませんっした。気を付けて。」
裏口まで案内してもらい、外に出たところで、呼び止められた。
「あの、一個聞いてもらってもいいすか。」
「なんですか」
「昨日彼女に、『火星に引っ越さないか』って言われたんですけど、急に」
「はい」
「これってプロポーズっすかね」
「は?」少々ユーモアが過ぎる冗談かと思ったが、見上げた顔は至って真剣だった。
「彼女さんは、火星の方ですか?」
「いえ、地球の方だと思います。多分。」最後の多分に誠実さが見えて、何となく交換を覚えた。
「OKしちゃったらいいんじゃないですか」
「OK?」
「いいですよって、言ってみたら?プロポーズかは、わかんないけど。」
「あー、なるほど。」しばらく間があって「いいっすね、それ」と嬉しそうに笑った。さっきからずっと何かに似ていると思っていたのだが、ポメラニアンだ。笑ったときに後ろでしっぽが揺れているのが見える。自分の返答のどこがよかったのかはまるで分らないが、なんだか喜んでくれているようでこちらも気分がいい。
「でも、分かんないっすよね。」何がどうでもなのか全く分からずぽかんとしてしまう。
「何がですか?」
「いや、だから、彼女が地球人かどうか、100%そうだとは言い切れないじゃないですか。」
「はあ」
「だって、俺が地球人か火星人かなんて、分かんないっすよね?」
「まあ、確かに」
「地球人と火星人て、一体何が違うんすかね。」
「そうですね」
「彼女だって、例えば、火星人じゃないにしても、狼女とかかもしんないじゃないですか。」
「地底人かもしれないですね。」
「吸血鬼かも」
「口裂け女とか?」
「あなただって、あ、すいません、名前…」
「松本です。」ここにきて、自分も相手も名乗りすらしていなかったことに気づく。店員の胸についている名札には〈山崎〉と書いてあった。ヤマサキかヤマザキか、どっちだろう。
「字は?」名前のことだとわかるのに数秒かかった。松本という名字の漢字を聞かれるのは初めてだった。
「植物の松に、本当の本ですけど。それ以外あります?」
「俺はそれしか知らないっすけど、わかんないじゃないっすか。」
「新種のマツモトかも?」
「そう、新種のマツモトかもしれないし、新種の氷女かもしれない。」
「何ですか新種の氷女って。」
「いや、知らないすけど。」くだらないやりとりに思わず笑みがこぼれる。会話が楽しいなんて、いつぶりだろう。ありがとう、多分地球人の山崎さん。
「帰りますね。失礼します。ご迷惑おかけしました。」
「いえ、こちらこそ。すいませんっした、時間取っちゃって。」またのご来店お待ちしております、と今の状況に正しいのか正しくないのか微妙な言葉を残した店員にお辞儀をして裏口の戸を開けた。入る前にはまだほんのりオレンジがかっていた空が、もうすっかり濃紺に変わっていた。エコバッグの中には、お詫びということで無料にしてもらった野菜たちと豚肉。野菜炒めくらいなら今から急いで帰って作れば七時半くらいにはできるだろう。茉莉ちゃんは夜まで塾だし、衣料品メーカーに勤める徹は、飲み会で夕飯はいらないと言っていた。私と響くんの二人分なら米も冷凍してあるもので足りるはずだ。部活帰りだろうか、重たそうな荷物を持った中学生が次から次へと歩いてくるのを横目に帰路を急いだ。
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