2 バレンタインデー誘拐事件

 




 二月十四日。

 言わずと知れた、バレンタインデーである。



 海外での風習がどうなのかは知らないが、少なくとも現代の日本では女性が意中の男性にチョコレートを渡す日として広まっている。


 本当に、迷惑なことこの上ない。

 どこの誰が広めたイベントかは知らないが、こんなもののせいで二月十四日は日本中の男子が一喜一憂する羽目になっているのだ。


 やれ「何個もらえた」だの。

「何組の誰ちゃんが誰くんにあげたらしい」だの。

「これは本命だ」「いや義理だ」だの。


 くだらない。実にくだらない。


 だいたい、チョコレート一つで相手の気持ちを推し量れるわけがないのだ。

 チョコレートなんかなくても、伝わる想いはある。

 チョコレートがもらえなかったからといって、好かれていないとは限らない。


 まったく、みんな少し落ち着いてほしい。

 本当に大事なことを見失っていないか?

 チョコレートをもらうことが目的になっていないか?


 違うだろう。バレンタインの日だけ期待したって、頑張ったって駄目なんだ。

 むしろ重要なのは、それ以外の三百六十四日だ。

 何気なく過ごしてしまいがちな毎日を如何に大切に、丁寧に過ごしたか。バレンタインデーは、その成績発表の日に過ぎない。


 その点、俺は抜かりない。

 愛する彼女に毎日「可愛い」「好きだ」と伝えているし、下校時は家まで送っているし、夜寝る前には必ず俺から電話している。

 その度に、彼女はこう返してくれるのだ。



「きもい」

「それさっきも聞きました」

「怖いんで家特定しないでもらえます?」

「電話番号教えてないのになんで知ってるんですか?」



 これである。

 バレンタインデーに至るまでの日常が如何に重要か、理解していただけるだろう。

 こうした日々の積み重ねが、チョコレートに結び付くというわけだ。




 以上の観点から、俺は…………


 二月十四日の今日。

 放課後を告げるチャイムが鳴るのと同時に、彼女──大橋おおはし伍月さつきを、拉致した。









「──ちょっと! いい加減下ろしてくださいよ!!」



 俺の肩の上で、伍月が暴れる。


 教室から出てきた彼女を捕まえ、肩に担ぎ……

 猛ダッシュで校舎を出て、駅前の某所へ辿り着いたところで、俺は彼女をゆっくりと下ろした。



「まじ意味わかんないんですけど!? いろんな人にめっちゃ見られたし! この人攫い! 犯罪者!!」



 愛らしい犬歯を剥き出しにし、伍月は目を吊り上げる。亜麻色のミディアムヘアまでもが怒りに逆立っているようだ。

 しかし俺は、腕を組み首を横に振る。



「可愛い恋人を優しく抱き上げ運んだだけだ。犯罪者扱いされるいわれはない」

「犯罪者でしょうが! 教室から出た私の口を塞いで羽交い締めにして、有無を言わさず肩に担ぎ上げてこんな知らない場所まで誘拐して来たんですから!!」

「だが伍月、よく見てみろ。ここが怪しい場所に見えるか?」



 と……俺は目の前に広がる部屋を見渡し、投げかける。

 ここは、駅前にある商業ビルの四階だ。出来たばかりの綺麗なビルで、他のフロアにはカフェや服屋、美容院など洒落た店が入っている。


 俺の質問に、伍月もつられるようにその場所を眺めるが、



「怪しいですよ……何ですか? 私これから食べられるんですか? それともヤバイ薬でも作って飲まされるとか?」



 などと、未だ疑念の晴れぬ顔で目を細める。

 俺はやれやれと首を振り、ため息をつくと、



「仕方ない。無知なお前に、ここがどんな場所が教えてやろう」

「なんですかその顔。むかつくんでやめてもらえます?」

「ここは──レンタルキッチンスタジオだ」



 綺麗なアイランドキッチンに、機能性とデザイン性を兼ね備えたハイテク調理器具がずらり。冷蔵庫やオーブンレンジなどの家電も最新式のものが置いてある。

 そんなキッチンの横には、作った料理を食べるためのパーティースペースがある。お洒落なダイニングテーブルに作った料理を並べ、ハイセンスなソファに座りながら食べることができるらしい。


 それが今、若い女性に大人気の、レンタルキッチンスタジオである。


 ……と言ってもなかなか想像しづらいかもしれないが、めちゃくちゃお洒落な家庭科室とでも思ってもらえれば問題ない。



 俺の言葉に、伍月はあからさまに顔をしかめる。



「そんなことは見ればわかりますよ。問題なのは、どうして私がキッチンスタジオなんかに連れて来られたのかってことです」

「やれやれ、ここまで来てまだわからないのか?」

「だからそのうざい呆れ顔やめてくれません? あそこにある肉叩きで殴りますよ?」

「そんなのは、今日が何の日か考えればすぐにわかることだろう」

「はぁ?」



 眉間に皺を寄せる伍月。

 俺は足を後ろに引き、一歩下がると……


 バッ! とその場に土下座をし、言う。




「頼む。ここで俺に、チョコレートを作ってくれ」

「はぁぁああ?!」




 伍月の絶叫が、二人だけのキッチンスタジオに響く。



「お前のことだ、いつものようにツンツン恥ずかしがって俺へのチョコなど用意していないのだろう? 本当は結婚したいくらい俺のことが大好きなのに」

「うっざ! 自信がないのかあるのかわからない!!」

「だからこうして、思う存分チョコを作れる密室空間をレンタルしたのだ」

「いやまじできもいんですけど! スタジオ丸々貸し切るとか、めっちゃお金かかったんじゃないですか?!」

「あぁ。先月のバイト代が全て消し飛んだ」

「もっとマトモなことに使ってくださいよ! そのヘンタイを治すための通院費にぜひ充ててほしい!!」

「俺が稼いだ金をどう使おうか俺の勝手だろう。それだけ俺は、伍月からチョコをもらいたいんだ」



 真剣な表情で告げる俺に、伍月は「う」と言葉を詰まらせる。



「もちろん材料も全て購入済みだが、何も難しいチョコ菓子を望んでいるわけではない。溶かして固めるだけ……いや、むしろ調理前の板チョコをくれるだけでもいい」

「キッチンスタジオ借りた意味!? ていうかそれはもはやただの『自分で買ったチョコ』ですよね?!」

「よく考えたら伍月の料理スキルを知らないでこんなところを借てしまったからな……まぁ、伍月が作ったものなら不味くても不恰好でも喜んで完食するが」

「何気に失礼なんですけど?! 私のこと料理下手だと思っているんですか?!」

「ということは、料理できるのか?」

「できますよ! むしろ得意な方だしっ! だから──こんなに気合い入れて作ってきたのに!!」



 ……そのセリフと共に。

 伍月は、カバンの中から一つの箱を取り出し、それを調理台にバンッ! と叩きつけた。


 淡いピンク色の包装紙にラッピングされた、可愛らしい箱。

 ご丁寧に赤いリボンまで付いている。


 それが一体何なのか理解できず、俺は何度かまばたきをして、



「…………それは何だ?」

「チョコですよ」

「…………は?」

「だからっ、先輩のために作ってきたチョコですよ!!」



 言いながら、伍月はその箱を俺にぐいっと突き付ける。




「私、いちおう先輩のカノジョですよ? チョコくらい、用意するに決まってるじゃないですか」




 目を逸らしながら、照れ隠しに口を尖らせた。

 そのセリフと、ほんのり赤く染まった頬に、俺は……

 ズキュンッ、と胸を射抜かれる。



「……伍月」

「なんですか」

「好きだ」

「はぁ? って……え?! 泣いてる?!」

「まさかお前からもらえるなんて……夢でも見ているようだ。これは一生大切にする。万が一に備え防腐剤を買っておいて本当によかった」

「きもっ! とっとかないでちゃんと食べてくださいよ! また来年もあげるんですから!!」

「……本当か?」



 俺の問いに伍月は「う゛っ」と後退りするが、構わず顔を覗き込む。



「言ったな? 来年も再来年も、その先もずっと、一生俺のためにチョコを用意してくれるな?」

「だ、誰も『一生』とは言ってないし!!」

「ほう……なら、こうするまでだ」



 俺は伍月から離れると、開けたままにしていた入口のドアへと近付く。

 そして、それを閉め……完全な密室を作り上げた。


 さぁ、"密室モード"で素直になった伍月から言質げんちを取ろう。

 これから先も、バレンタインデーにチョコをくれるつもりがあるのか聞き出すのだ。


 俺はスマホで録音の準備をしながら、伍月の方を振り返る。

 すると……



 ──バリッ、バリバリバリッ。



 ……と。

 伍月は、自分が用意したチョコの包装紙を破き、中の箱を取り出していた。



「な、何をしている?」



 慌てて駆け寄ると、伍月はにんまりと笑い、箱を開け中身を露わにする。


 トリュフ、というのだろう。そこには丸い形をしたチョコレートが四つ、アルミのカップに入って綺麗に並べられていた。ココアパウダーがかかっており、とても丁寧に作られていることが窺える。


 これが、伍月が俺のために作ったチョコ……


 実物を目にし、うっかり感動していると、



「んふふ。先輩、私からのチョコ……欲しいですか?」



 なんて、"密室モード"な伍月が小悪魔っぽく言う。

 思わず「欲しい」と即答する俺に、伍月はさらに笑みを深め、



「いいですよ。来年も再来年も、その先もずーっと、私がチョコをあげます。その代わり……」



 伍月は、そのトリュフの一つを指で摘むと、



「……を食べることができたら、ですよ?」



 と……




 摘んだそれを、突き出した舌の上に、見せつけるように乗せた。




「ほあほあ。はやふひないほ、ほへひゃいはふほ?」



 ほらほら。早くしないと、溶けちゃいますよ?

 と、言っている。


 誤算だった。まさかこんな条件を突きつけられるとは……

 先日部屋に招いた時に引き続き、俺にキスをさせようと企んでいるのだろう。

 俺が伍月からのチョコを切望しているのを逆手に取り、否が応でもキスする流れに持ち込もうとしているのだ。



 ピンク色につやめく伍月の舌……

 その温かさで、乗せられたトリュフが早くも溶け始めているのが見て取れる。


 この舌ごと、チョコレートを味わったなら……

 それはそれは甘くて、柔らかくて、幸せなのだろう。



 しかし、そんなことをしたら、それだけで終われなくなるのは目に見えている。

 愛する彼女と、チョコ味のディープキスなどしようものなら……別のクッキングが始まってしまう。

 それだけは、何としてでも回避しなくては。



 俺は、伍月が好きだからこそ、伍月とキスしない。

 少なくとも、結婚するまでは。


 だから……



「……わかった。そのチョコを、食べればいいんだな?」



 ガシッ、と。

 俺は、伍月の両肩に手を置くと……




 舌を突き出して。

 伍月の舌の上のチョコを、舐め始めた。




 伍月は驚いたように目を見開き、顔を真っ赤にする。

 しかし俺は、舌先の動きに集中し、伍月の唇や舌に決して当たらぬよう細心の注意を払いながらチョコを舐め上げていく。



 俺が舌を動かす度に、ピクピクと震える伍月の身体。

 戸惑いと恥じらいに揺れる瞳……その小さな反応も見逃さないよう、俺は彼女をじっと見つめる。


 嗚呼、近い。可愛い。

 チョコレートの甘い味と、伍月の甘い香りが合わさって、眩暈めまいがしそうだ。

 少し動かせば、彼女の舌や唇に、簡単に触れることができる距離。

 だけどこの一線を越えてしまったら、きっともう後戻りはできないから……

 やはり今は、疑似体験に留めておこう。




 やがて、可能な範囲でのチョコを全て舐め終え……

 俺は、伍月の肩から手を離した。

 その途端、彼女はへなへなと椅子に座り込むので、俺は口元を拭いながら言ってやる。



「最高に美味かった……甘さもなめらかさも絶妙だ」

「せ……せっかくちゅーできると思ったのに……!!」

「言ったはずだ、結婚するまではしないと。それに……」



 ……ずいっ、と。

 椅子に座り込んだ伍月に、上から覆いかぶさるようにして、




生憎あいにく、舌は器用な方でな。チョコだけを舐め取ることなどわけない。だから…………キスができるようになったその時は、覚悟しておけよ?」




 そう、トドメの言葉を囁いてやる。

 意味を理解した伍月は、顔からぼんっと湯気を噴き出し、叫ぶ。



「せっ……先輩のえっち!」

「そうだが?」

「うぅ……そんなこと言われたら、ますますしたくなっちゃうのに……」

「こら、はしたないことを言うな」

「だってしたいんだもん! 先輩とキスしたいキスしたいキスしたい!!」



 足をバタバタさせ、子どものように駄々をこねる伍月。

 普段のツンツンモードももちろん好きだが、感情を素直に爆発させる密室モードもやはり可愛いと思ってしまう。


 ……仕方がない。

 今回も少しだけ折れてやろう。


 なんて偉そうに脳内で言い訳しながら、伍月に触れたいという欲求にほんの少し従うことにする。




 駄々を捏ねる伍月の右手。

 俺は、それをそっと捕まえて。


 その甲の部分に、優しく……唇を押し当てた。




 伍月はぴたりと固まり、見開いた目をキラキラさせながらその様子を見つめている。

 手の甲にキスなんて、王子さまを気取っているようで恥ずかしかったが……カッコつけたわけではなく、ちゃんと意味を込めてしたことだ。




「……俺のためにチョコを作ってくれたこの手に、敬意を表して。これは、その……ほんのお礼だ」




 そして。

 伍月の手を、きゅっと握り、




「……チョコレート、ありがとうな。本当に嬉しかった。約束通り、来年も再来年も、その先もずっと、よろしく頼む」




 そう、まっすぐに伝えた。

 伍月はぽーっと頬を赤らめてから、嬉しそうに顔を綻ばせ、



「……いいですよ。その代わり、私以外の女の子からはぜーったい、もらっちゃだめですからね?」



 なんて、可愛すぎる束縛宣言をするので。

 俺は「もちろんだ」と、すぐに答えた。







 ──せっかくスタジオを借りたので、そのまま俺が買った材料で一緒にチョコレートケーキを作ることにした。


 換気のために窓を開け、密室を解除する。

 ツンツンモードに戻ったはずだが、伍月は非常に機嫌が良く、にこにこしながらケーキ作りに取り組んでいた。



 前回おでこにした時もそうだったが、手の甲へのキス一つでここまで喜ぶのなら、今後も唇以外は前向きに考えてみようか……



 などと考えながら、隣に立つ伍月を見つめる。

 ボウルの中の生地を泡立て器で混ぜる姿は、見惚れてしまうほど様になっていた。



「……こうして二人でキッチンに立つと、新婚気分が味わえて良いな」

「は? ふざけたこと言ってないで早くオーブンの予熱スイッチ入れてください」



 なんて、ツンと叱られてしまったが。


 そんなこんなで焼き上がったケーキは、とろけるほどに甘く、おいしくて。



「う〜ん、おいひい」

「うん、うまいな」

「焼き加減サイコー……先輩、もしかしてお菓子作りの天才なんじゃないですか?」

「いやいや、伍月の混ぜ方が良かったんだろう。伍月の方が天才だ」

「じゃあ二人とも天才ってことで」



 と、甘味の力により毒気の抜けた伍月を微笑ましく眺めながら……

 来月のホワイトデーはうんと喜ばせてやろうと、次なる計画の草案を描き始めるのだった。


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