6-8

「もういいわ、フィリップ。行きましょう、この人には何を言っても無駄よ。自分のことしか考えていないんだもの」


「ああ、そうだね。そういうわけですので、もう今後僕達には近づかないでくださいね」


 フィリップと名乗った男がきっぱりと言い、フェリカの手を引いて部屋を出て行こうとする。グリムの傍を通り過ぎた時も、フェリカは彼の方を一顧だにしなかった。


 グリムは放心したようにその場に立ち尽くしていたが、扉が開閉する音でようやく我に返った。部屋から出て行こうとする二人の方を勢いよく振り返って叫ぶ。


「待て! 貴様ら……、我を愚弄したまま帰れると思うな……!」


 二人を引き留めようとグリムが片手を突き出したその時、彼自身も予想していなかった事態が生じた。腕が本来の長さを超えて伸び、振り返ったフィリップの胸を貫いたのだ。ナイフで貫かれたような痛みが走り、フィリップが身体を仰け反らせて顔を歪める。

 グリム自身、突然変異した自らの腕を見て驚きを禁じ得なかったが、それでも手を引っ込めようとは思わなかった。表情から一切の感情を消し、心臓を抉ろうとでもするかのように、自らの手を深く、執拗にフィリップの胸に食い込ませていく。


 やがてグリムの手がずるりとフィリップの身体から引き抜かれる。抜き出されたその手は見た目も変異しており、肘から先が毒々しく黒ずみ、皺んだ肌の上に無数の血管が浮かんでいる。指先は長く黒い鉤爪に覆われ、人間の手とは思えないほど禍々しかった。


 今、その手は一つの臓器を掴んでいた。フィリップの体内から抜き出された心臓だ。血を滴らせながら時を刻むそれは少しずつ鼓動の間隔を広げてきている。それにつれてフィリップの顔からは血の気が引き、精悍だった顔からは活力が失われていく。


「フィリップ……!? どうしたの!? しっかりして!」


 フェリカが金切り声を上げてフィリップの傍に跪く。床に横たわる彼の頭を持ち上げて膝に乗せるも、土気色をした顔から苦悶が消えることはない。


 主の身体を離れた心臓は次第に動きを弱め、やがて完全に鼓動を止めた。


「そんな……、いや……! フィリップ! フィリップ!」


 愛の嬌声は消え、代わりに痛哭が室内を支配する。フェリカは執拗にフィリップの名を呼んだが、彼の瞳は今や固く閉じられ、二度と光を宿すことはなかった。


 人目も憚らず慟哭を上げるフェリカの姿を、グリムは放心したように見つめていた。


 フィリップに憎悪を抱いていたとはいえ、彼を絶命させ、こんな風にフェリカを悲しませることをグリムは望んでいなかった。ただ、彼女がフィリップに向ける関心を、少しでも自分に向けてくれればそれでよかったのだ。


 フェリカはフィリップの遺骸に取りすがって泣き続けている。グリムはどういう行動を取るべきか迷いあぐねたが、ともあれ心臓をフィリップに返すことにした。右手で心臓を摑んだまま、フィリップを掻き抱くフェリカに近づこうとする。


「……悪魔」


 フェリカがぽつりと呟いた。グリムが足を止めて彼女を見た。フェリカはフィリップの遺骸を抱いたまま肩を震わせていたが、やがて顔を振り上げて叫んだ。


「……あなたは悪魔です! 私を奪おうとしただけでなく、フィリップまで……! どこまで私から奪えば気が済むのですか……!?」


 フェリカが涙の溜まった目でグリムを睨みつけてくる。そこにはかつて魔法講義を行っていた時の称賛もなければ、悩みを聞くと言った時の心配の色もなかった。そこにあるのは憎悪だけだ。親愛とは対極にある、忌むべき者を貫く敵意の目。


 フェリカは間もなくグリムから視線を外すと、再びフィリップの遺骸に覆い被さるようにして泣き始めた。グリムに背を向けた格好は無防備だったが、それがかえって彼女の決意を表しているように思えた。たとえ強引に肉体を奪われたとしても、その魂までも奪い去ることはできない。


 死してなお、彼女の心はフィリップのものだった。そしてそれは、グリムが、彼が見下していたはずの人間に敗北したことを示していた。

 富と、美食と、快適な居室。あらゆるものを与えられたグリムだったが、本当に欲したものだけは、最後まで手に入れることはできなかったのだ。

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