6-6

 それから一週間後、フェリカはいつものようにグリムの部屋に来ていた。

 この頃になると彼女も掃除の時間を間違えることはなくなり、グリムの魔法講義を目当てに部屋に来るようになっていた。グリムも彼女を追い返すことはなく、部屋に招き入れて中央にあるソファーに座らせた。彼がその向かいに腰かけ、テーブルの上に魔術書を開いて講義を始める。


 最初は身を乗り出して講義に聞き入っていたフェリカだったが、途中からグリムの様子がおかしいことに気づいた。

 彼は魔術書を読み上げながら魔法の解説をしていたのだが、開いているページと実際に話していることが全然違うのだ。まるで他のことを考えて、心ここに在らずの状態で講義をしているように。


「グリム様? どうかなさいましたか?」


 フェリカが不思議そうに尋ねる。グリムは魔術書から顔を上げて彼女の方を見た。心なしか、その顔が強張って見える。


「今は水の魔法の講義のはず。なのに先ほどから土の魔法のお話ばかりなさっていますわ」


「ああ……そうだったか。すまぬ、気づかなかった」


「珍しいですわね。グリム様が講義内容をお間違えになるなんて」


「少し気にかかることがあるものでな。多少集中力を欠いているやも知れぬ」


「何かお悩み事ですの? 私でよければ相談に乗りますわ」


 フェリカがいかにも心配そうに言う。グリムは鋭い眼で彼女の顔を見つめた後、ソファーに身を預けておもむろに口を開いた。


「フェリカ……。お前は今の地位に満足しているのか?」


「え? 何のことですの?」


「今のお前は一介の小間使いに過ぎぬ身。その地位で足りるのかと聞いているのだ」


「十分ですわ。私は学もありませんし、できることはお掃除くらいです。なのにこんな立派なお城で働かせていただいて、それだけで十分有り難いですわ」


「だが、使用人程度であれば報酬も知れておろう。より高い対価を得たいとは思わぬのか?」


「それは……もちろんお給料は多に越したことはありませんけれど、私の能力ではこれ以上はとても……」


「では、お前にしかできぬ仕事があると言ったらどうする?」


「え……?」


 フェリカが目を瞬かせてグリムを見つめる。グリムは表情を変えずにその顔を見返した。


「そんな……そんな仕事があるんですの? 私のような学のない女にできる仕事が?」


「うむ。お前が承諾すれば、現状の二倍……いや三倍以上の報酬が約束される」


「そんなに……? いったいどんなお仕事なんですの?」


 フェリカが身を乗り出さんばかりにして尋ねてくる。グリムは無言で立ち上がると、テーブルを回り込んで彼女の隣に立った。それでもフェリカは訝る素振りを見せず、好奇心を剥き出しにしてグリムを見上げている。


「先日、我は国王と謁見した」グリムは静かな声で話し始めた。

「そこで国王から、我の長年の労に報いるため、何か褒美を与えたいという申し出を受けたのだ。我は元より物欲を持たぬ身。最初は所望するものはないと答えたが、そこでお前のことが浮かんだのだ」


「私の、でございますか?」


「左様。お前は現在、召使いなどという下等な地位に留まっているが、それでは不十分だと国王に進言した。国王は我の要求を呑み、お前に新たな仕事を与えることを決定した」


「まぁ……そんな、勿体ないですわ。私などのために……」


「構わぬ。これは我自身の望みでもあるのだ」


「そ、それで……いったい何なんですの? 私の新しい仕事というのは」


「簡単なことだ。お前は今日より、我のために奉仕するのだ」


 そこでグリムの目に危険な光が灯った。赤い双眸がぎらりと煌めいたかと思うと、彼はソファーにフェリカを押し倒した。フェリカが呆気に取られている中、強引に彼女の顔を掴んで顔を自分の方に向かせようとする。


「な……何をするのですか!?」


 フェリカが片手を押し出して迫り来るグリムの顔を阻もうとする。だがグリムは彼女の手を乱暴に振り払うと、強引にその唇に接吻しようとした。フェリカは顔を背けながら身もがき、彼女が振り回した腕が顔に当たってグリムが一瞬怯んだ。

 フェリカはその隙に彼を突き飛ばしてソファーから離れる。ソファーから身を起こしたグリムは、飢えた獣のような目で彼女を見つめていた。


「なぜ抵抗する? お前は我の傾城となることが許された。名誉だとは思わぬのか?」


「名誉ですって……? どうやったらそんな考えになるんです? 私はあなたの所有物じゃありません!」


「だが、今日に至るまで、お前は自らの意思で我の部屋を訪ねていた。お前も我を所望していたからではないのか?」


「あれはあなたのお話が興味深かったからです! でもこんなことをされるんだったら、もう二度とここには来ません!」


 鼻息荒く宣言し、フェリカが肩を怒らせて部屋を出て行く。いつになく乱暴な音を立てて入口の扉は閉められた。


 グリムは当惑してフェリカが消えた入口を見つめていた。なぜ、彼女が拒絶したのか、彼は全く理解できなかった。この崇高なる魔術師である自分が、一介の人間に過ぎない彼女に価値を見出してやったのだ。喜んでその身を差し出すものと思っていたのに、彼女は野良犬でも見るかのような軽蔑の視線を向けてきた。その理由が理解できなかった。


 しばらく頭を巡らせた後、フェリカは自分を拒んだわけではなく、突然の申し出に驚いただけだろうとグリムは結論づけた。そうでなければ、魔術師である自分の寵愛を拒むような愚かな真似をするはずがない。平常心を欠き、感情に任せて行動する。それは人間、特に女には珍しくない反応だ。だが冷静になれば、彼女もいつかのように自らの非礼を詫び、その身を以て償いをしようとするだろう。

 グリムはその時を待つことにした。他の人間であれば彼がこのような鷹揚な反応を示すことはなかったが、フェリカは彼にとって特別だったのだ。

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