5-10

「……なんか疲れちゃったわね。あたしもそろそろ帰るわ」リビラが欠伸をしながら言った。

「あんたはどうする? レイク。お茶でも飲んでく?」


「僕は……」


 ジャケットの上から指輪の箱を握りしめる。今日、自分はこれを彼女に渡すために来た。指輪と共にプロポーズの言葉を贈り、彼女を生涯のパートナーとするために。


 だけどどうしてだろう。指輪を取り出すことも、彼女に想いを伝えることも、今のレイクにはできそうになかった。


「……いや、遠慮しておくよ。近くを通りかかったから立ち寄っただけで、元々大した用事があるわけではないんだ」


「そう? でも悪いわね。待たせたのに何もなしで帰すなんて……」


「僕のことは気にしないでくれ。では……今日はこれで失礼するよ」


 努めて平静を装って背を向ける。顔を背けていたので、リビラがどんな顔をしていたかはわからない。不審に思っただろうか。取り繕うべきかと思ったが、今はその余裕すらもない。


 これ以上彼女と言葉を交わしていたら、何かが、決定的に狂ってしまう気がした。






 いつの間にか時刻は夜に変わり、空は漆黒に染まっていた。通りには人っ子一人おらず、街は早くも眠りについてしまったようだ。静寂に包まれた街は、レイクがプロポーズの場として想定していた空間そのものだったが、今はもう、そのことを考える気になれなかった。


 闇の中を一人帰路につく。ポケットには、結局取り出されることのなかった指輪が入ったままになっている。往路よりも重く感じられるのは、自分の心境を反映しているからだろうか。


 先ほどの会話を反芻する。リビラがシリカに厳しく当たるのは、妹に期待を懸けているからだということはわかっている。彼女の心に悪意など欠片もなく、その行動は全て、純粋に妹の成長を願って為されたものだということも。


 だがレイクには、リビラが暗に自分をひけらかしているように思えてならなかった。あんたももっと頑張りなさい。そしたらあたしみたいになれるから。彼女は努力によって一人前の水晶魔術師クリスタル・マジシャンになった。だから他の人間も努力すれば、無条件に自分と同じレベルに到達できると信じている。


 だけど、それは彼女が成功した側の人間だから言えることだ。世の中には、努力だけではどうにもならないことがある。レイクは痛いほどにその事実を知っていた。

 自分は努力によって医者になることはできた。だけど、もう一つの道は、どれだけ努力を重ねても決して道が開かれることはなかった。与えられなかった者の惨めさを彼女はわかっていない。光の世界にいる人間は、影が闇の中でどのように足掻き、もがき、そして苦しんでいるか、永久に知る機会がないのだ。


 ぽつ、と何かが額に当たる。いつの間にか雨が降り出したようで、雨粒が石畳に弾けては消えていく。傘を持っていないレイクは身体を濡らすことになったが、建物の軒下に駆け込もうとは思わなかった。頬を伝う冷たい雨が、身体を、そして心を凍てつかせていく。


 つい数時間前まで夢見ていた、リビラとの結婚生活。だけど今、自分がその未来を望んでいるとはレイクには思えなかった。

 リビラと居所を共にすれば、今よりもずっと身近で彼女の活躍を目の当たりにすることになる。彼女が魔力を行使して賊を撃退し、街の人々を助けて回ったという話を食卓で聞かされ、自分は平常心を保っていられるだろうか。

 住民から、あなたの奥様は立派な水晶魔術師だと褒めそやされ、笑顔でそれに応えるだけの余裕があるだろうか。


 そして将来、自分とリビラの間に子どもが産まれ、その子が魔力を宿していた場合——。


 僕はその子を、愛することができるだろうか――。









………




……………………




…………………………………………







 打ちつける雨脚が強まる中、何かを振り切るようにレイクは早足で歩き出した。それでもまだ足りないような気がして、途中からは全力で走り出す。その間にも雨は執拗に石畳を打ちつけ、いつしか驟雨しゅううとなってミストヴィルの街を覆っていく。


 漆黒の空から落ちる雫。それはまるで、闇にいる誰かが痛哭つうこくを上げているようにも見えた。

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