二年前 ―夢―

4-1

 レイクがミストヴィルに診療所を開設してから早四年、彼はそれまでと変わらず順調な生活を送っていた。


 診療所には相変わらず多くの患者が出入りし、彼の診察や応対を求めていた。開業から四年が経っても彼の丁重さは少しも変わらず、経験を積んだ医者にありがちな傲慢な態度は少しも見られなかった。誰が相手でも親身になって話を聞いてやり、治療が必要な者には薬を、心の安寧が必要な者には受容と励ましを示してやった。開業当初と変わらぬその姿勢は彼の評判をますます高め、レイクは相変わらず多忙な日々を送っていた。


 仕事の面ではさしたる変化のないレイクだったが、私生活の方では変化があった。リビラのことだ。


 今から一年前、彼女の家に外泊した翌日から、レイクはリビラと相談した上で自分達の関係を公にすることにした。といっても、婚約ではないので挨拶に回ることはせず、ただ診療所以外の場所でも彼女と会うようになった。並んで石畳の道を歩き、川縁に腰を下ろして運河を眺め、時には木陰で肩を寄せ合った。


 最初は医師と患者が街で偶然会っただけだと思っていた住民も、次第に二人の間に漂う親密な空気に気づいたのだろう。住民の一人から、二人は交際しているのかと尋ねられ、レイクは迷いなく首肯した。噂は瞬く間に広がり、翌日にはミストヴィルの全住民が二人の関係を知るところとなった。


 二人の交際は、ミストヴィルの人々に温かく祝福された。二人が一緒にいるのを見ると大人は微笑みを浮かべながらそっと距離を置き、子どもは逆に近づいて口笛を吹きながらはやし立ててきた。


 リビラは最初、レイクに好意を寄せている女性患者に自分が陰口を叩かれるのではないかと心配していたが、彼女がそうした憂き目に遭うことはなかった。女性たちの間で妬心が起こらなかったわけではないが、傍から見ても二人はお似合いのカップルであり、その関係に水を差そうという勇気のある女性は一人もいなかったのだ。


 関係を公言したことで、レイクは今までよりもリビラと会う時間が増えた。それまでは仕事の合間に診療所で密会していたのが、今やどこへでも連れ立って堂々と出かけていけるようになった。

 といっても、二人とも多忙なことに変わりはないので四六時中一緒にいられるわけではないのだが、それでも街のどこでも気兼ねなく会えるのは幸せだった。夜分にリビラの家を訪れても、朝になってそこから出てきても誰にも咎められることはない。


 リビラという基盤ができたことで、レイクのミストヴィルに対する愛郷心はますます強化なものとなった。王都からは時々引き抜きの手紙が来ていたが、彼はそのたびに丁重な返事を書いて断った。

 レイクはミストヴィル以外のどこにも行く気はなく、この運河の流れる美しい街で生涯を過ごすつもりでいた。

 そしてできることなら、その隣にはリビラがいてほしいと願っていたが、それを口に出す気には、まだなれなかった。


 




 ある日、レイクは夜間の診療を終え、診察室で一人カルテを書いていた。一時は診療所に泊まり込みで仕事をすることも珍しくなかったが、最近では仕事も少しずつ落ち着き、夜の十時頃には帰宅できるようになっていた。疲れている時はそのまま眠ってしまうこともあるが、余力があれば最新の医学書を読んだり、新薬の調合をしたりして過ごした。彼からすればそれは仕事ではなく、自分の基盤を揺るぎないものにするための当然の習慣だった。


 壁の時計に視線をやる。時刻は九時四十分。後一枚カルテを書き終えたら今日は帰宅することにしよう。明日は休診日だが特に予定はない。たまには家で寛ぐか、それとも外出でもしてみるか。もしリビラにも予定がなければ、一緒に食事に行くのも悪くない。その光景を想像するだけでレイクの心は踊った。


 その時、誰かが玄関の扉をノックする音がしてレイクは顔を上げた。こんな時間に誰だろう。診察終了のプレートは入口に掲げていたはずだが、もしや急患だろうか。

 レイクは訝りながらも立ち上がり、待合室を抜けて入口へと向かった。




 玄関の扉を開ける。外はすっかり漆黒に染まり、闇の帳が石畳に影を落としている。闇の中ではパステルカラーの丸屋根も色を失い、石造りの家々は堅牢さばかりが目立って無骨な巨人のように見える。運河の心地よいせせらぎさえも聞こえず、代わりに耳を貫くのは哀愁を誘う獣の遠吠えのみ。昼間とは様変わりした空間は見知らぬ街のように不気味で、レイクは我知らず不安に襲われた。


 今、その闇の中に一人の人物が立っていた。三つ編みをした長身の女性。リビラだ。だが彼女はレイクの方を見ようとはせず、張り詰めた表情でその場に立ち尽くしていた。


「リビラ? どうしたんだこんな時間に?」


 レイクが眉をひそめて尋ねた。最初はてっきり、彼女が夜の逢引きに訪れたのかと思ったが、そうでないことは彼女の表情を見ればわかった。街灯の薄明りの下でもわかるほどに、リビラの顔は蒼白になっていたのだ。


「……どうした? 何があった? もしかして、どこか怪我でも……?」


 レイクが心配そうに尋ねたのと、リビラが崩れ落ちるように彼にしがみ付いてきたのが同時だった。レイクが驚いて視線を落とすと、リビラは肩を震わせながら彼の胸に顔を埋めていた。


「レイク、あたし……」


 続く声は言葉にならず、あえかな吐息となって闇に溶けていく。代わりに背中に回された手の力だけが異様に強まり、彼女の身に何か尋常ではない事態が起こったことを物語っていた。


 レイクは当惑してリビラを見つめたが、ひとまず彼女を中に入れて話を聞くことにした。子どもをあやすように片手で背中を擦り、もう片方の手でそっと肩を抱いて彼女を診療所の中へと誘う。この分だと今夜も帰れないかもしれないが、レイクにとってそんなことはどうでもよかった。


 リビラのためなら彼は朝まででも、明日の夜まででも診療所に留まるつもりでいた。

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