四年前 ―密会―

2-1

 レイクが王都からミストヴィルに移り住んで早二年が経った。


 診療所は開業当初と変わりなく繁盛していて、朝から晩までひっきりなしに患者が訪れては、できるだけ長く診察を受けようと大小様々な症状を訴えていた。レイクはその一つ一つに耳を傾けてやりながら、治療や処方薬を的確に施してやっていた。

 多くの患者を前にしても彼が診察を雑にすることはなく、できるだけ丁寧に患者に接しようと心がけていた。有能にして善良な医師という彼の評判は少しも落ちることなく、レイクは名医として着実に実績を重ねていた。


 午前中の診療時間は瞬く間に過ぎ、最後の患者がレイクの前に座っている。黒いエプロンを着た中年の男だ。彼の名はカイルと言って、水晶加工職人として生計を立てている。普段はあまり病院に来ることはないのだが、今日は仕事中に腰痛が発症したため、やむなく仕事を抜けて診療所に来ることにしたのだ。


「で、どうなんだい先生? 俺の腰は」


 カイルが尋ねた。レイクはすぐには答えず、撮ったばかりのレントゲン写真を難しい顔で見つめている。


「そうですね。骨に異常は見られませんから、一過性の症状だと思われます。腰痛の原因に心当たりはありませんか?」


「原因っつってもなぁ、俺の腰は前からこうなんだよ。普段は何ともねぇんだけど、ちょっとしたことですぐ暴れ出すんだ。

 今日だって普通に仕事してたのに、ちょっと腰屈めただけでぼきって嫌な音がしてよ。まったく難儀ったらありゃしねぇや」


「なるほど。もしかすると、無理な体勢で作業をされていたのかもしれませんね。それで腰に負荷がかかっていたか」


「ああ。それはあるかもな。作業に夢中になると他のことなんて忘れちまうからなぁ。じゃあこれからは姿勢に気をつけりゃいいってわけかい?」


「そうですね。後はなるべく身体を冷やさないようにしてください。身体が冷えると血行が悪くなって筋肉が硬直し、それが神経に刺激を与えて痛みが出やすくなるんです」


「なるほど、冷えねぇ。そりゃあ気づかなかったな。今度カミさんに毛糸のパンツでも縫ってもらうことにするか」


「それはいいですね。僕の方でも漢方薬を処方しておきましょう。煎じて飲めば身体が温まって血行がよくなりますので」


「ああ、そりゃありがてぇや。しかしあんたはやっぱり頼りになるなぁレイク先生。腰痛なんてちっぽけな病気でもちゃーんと見てくれるんだからよ」


「病気に貴賤はありませんよ。些細に見える病気でも放っておけば重症化するリスクがある。僕は病気の芽を一つでも多く摘み取っておきたいだけなんです」


「へえ。そりゃ立派なこったな。医者なんてろくに診察もしないでふんぞり返ってる奴も多いってのに、あんたは全然違う。あんたがこの街にいてくれてよかったよ、レイク先生」


 カイルが心から感心した顔で言う。こんな風に面と向かって感謝されるのは悪い気分ではなかった。自分が他人の役に立てたことが嬉しいだけでなく、そのことによって自分の存在を認められた気になるからだ。


「では、診察はこれで終わりですので、待合室でお待ちください。痛み止めと漢方薬をお持ちしますので」


 レイクが柔らかな笑みを浮かべながら立ち上がり、扉を開けてカイルを待合室に案内しようとする。

 だがなぜかカイルは動こうとせず、じっとレイクの顔を見つめていた。


「どうしました? まだ何か?」

「いや……前から気になってたんだけどよ、レイク先生。あんた恋人は作らないのか?」


 思いがけない質問をぶつけられ、レイクが目を瞬いた。カイルは続けた。


「あんたは親切だし、見てくれだって悪くない。しかも仕事は医者と来た。そんだけ好条件が揃ってりゃ女がほっとかねぇだろう? なのにあんたの周りには全然女の影がねぇ。前から不思議だなぁと思ってたんだよ」

「それは……」


 どう返事をすればいいかわからずにレイクは言葉を濁した。リビラと交際を始めたことはまだ街の人には話していない。彼女が公にはしたくないと言ったためだ。

 レイクはしばらく考えてから答えた。


「僕は仕事が一番大事なんです。医者の仕事は診察だけでなく、最新の医療知識や技術を習得することも含まれています。そのためには日々の勉強が欠かせませんから、他のことにまで手が回らないんですよ」


「ふうん。そんなもんかね。まぁそういう熱心な先生がいてくれるおかげで俺達は助かってるんだけどよ。でもたまには息抜きしたいとか思わねぇのかい?」


「僕にとっては、皆さんのお役に立てることが何よりも喜びなんですよ。患者さんが安心して帰っていくお顔を見るだけで苦労も吹き飛ぶというものです」


「そりゃまたご立派なことで……。でも気をつけなよ先生。あんた自身が女に興味ないっつっても、悪い虫はどっから寄ってくるかわからねぇからな」


「ご忠告には感謝します。ですが僕には無縁の話だと思いますよ。僕のような仕事人間を相手にしてくださる女性がいるとは思えませんから」


「そういうことは鏡を見てから言った方がいいぜ。その面だけでも女を引き寄せるには十分だろうからな」


 言われてレイクは無意識に窓ガラスに視線をやった。銀縁眼鏡をかけた長身の青年と目が合う。特段容姿に気を遣っているつもりはないが、確かにこれまでも異性からアプローチを受けたことはあった。医師を志す前、図書室で本を読んでいる時などに知らない少女が入ってきて、そっと机に恋文を置いていったこと。あるいは医師になってから、診察中に女性の患者から熱っぽい視線を向けられたことは一度や二度ではなかった。


 だがレイクは、それが自分の側に魅力があるからだとは考えたことがなかった。単に他に適当な男がいないから、あるいは恩義を感じているから厚意を寄せてくれているだけだと思っていたのだ。だからレイクは、そうしたアプローチの全てを丁重に断っていた。


「と、長々と話しちまったな。午後からもまた診察があるんだろ? 邪魔にならないようにさっさと帰らせてもらうよ」


 カイルが時計を見ながら立ち上がり、いそいそと待合室の方に向かう。レイクも急いで痛み止めと漢方薬を探して彼の後を追った。

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