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 入口の扉を開けた途端に朝日が差し込み、レイクは思わず手で顔を覆った。陽光に照らされた街並みはいつもの煌びやかさを取り戻していて、早くも露店の準備をする商人の声も聞こえてくる。


その光景を見ていると、昨晩の出来事はやはり夢だったのではないかとレイクは思った。だけど、たとえこれが現実だったとしても、きっと夢のままにしておいた方がいいのだろう。これ以上何かを求めたところでお互いに不幸になるだけ。ならば美しい記憶として、自身の中に永久に留めておいた方がいい。


「それでは僕はここで。どうぞ気をつけてお帰りください」


 後ろ手に扉を閉め、リビラと向かい合いながらレイクは言った。送っていくべきだろうかかとも考えたが、これ以上彼女と一緒にいてはいけないという気持ちの方が強かった。


「もし何か気になることがあればいつでもいらしてください。医師として、僕にできることがあれば何なりとさせていただきますので」


 医師として、というところを強調する。それに気づいたかはわからないが、リビラが少しだけ失望した顔になって、「……ありがとうございます」と頭を下げた。


「それでは……また。妹さんにもよろしくお伝えください」


 レイクは一礼して言うと、医師らしい真面目な顔を作ってリビラを見送ろうとした。だがリビラは歩き出そうとしない。何かをためらうように視線を落とした後、やがて申し訳なさそうに呟いた。


「先生……本当に、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからはもう……ここに来ないようにしますから」


 レイクが怪訝そうに眉根を寄せる。リビラはうつむいたまま続けた。


「あたし……よくわかったんです。あたしがここにいても、先生を困らせるだけだって……。

 先生は優しいから、あたしのわがままをたくさん聞いてくれましたけど、本当はいろいろ辛かったんですよね……。あたし、本当に恥ずかしいことしちゃったなって反省して……。もう昨日みたいなことは二度としません。薬も自分で塗りますし、家にも一人で帰ります。先生を頼らないで、一人で生きていけるようにしますから……」


 そう言ったリビラの痛切な表情を見た瞬間、レイクは胸が締めつけられそうになった。


 彼女はまたしても一人で物事を抱え込もうとしている。誰の力も借りず、自分一人で問題を解決しようとしている。彼女がそう決意したのであれば、彼女は実際に二度と診療所を訪れはしないだろう。

 彼女はそういう人だ。頑なまでに他人を頼ろうとせず、常に強い自分だけを見せようとする。どれだけ傷を負っても決して辛そうな表情を見せず、快活に笑って済ませようとする。


 だけど、昨夜だけは違った。彼女は自らコートを脱ぎ、傷だらけの身体を見せてきた。自分の手に縋り、傍にいることを求めてきた。それは彼女にとって、自らの弱さをさらけ出すも同じだったのかもしれない。誰が相手でもそうしたわけではないだろう。


 彼女は自らの弱さを見せられる相手として僕を選んでくれた。それなのに、僕は――。


「……それじゃ、そろそろ帰りますね。これからもお仕事頑張ってください」


 定型的な言葉で別れを告げた後、リビラがレイクに背を向けて立ち去ろうとする。

 だが、顔を背ける前、寂しげにうつむけた横顔を見た瞬間、意識するより早くレイクはその手首を摑んでいた。リビラが驚いた顔で振り返る。


「先生……?」


 困惑した顔でリビラが首を傾げる。咄嗟に引き留めたものの、レイクは何と言葉を続ければよいかわからなかった。一言でも口にしてしまえば、その瞬間に世界が終わってしまうような気がした。


「……もしかして、あたしが一人で帰れるか心配してくださってるんですか? それなら大丈夫ですよ。一晩寝たおかげで元気になりましたし、家はすぐそこですから」


 リビラが軽く笑って言い、レイクの手から自分の手を抜き出そうとする。

 だがレイクは離さなかった。手にいっそう力を込めながら、必死に言葉を探す。


「……あなたは昨日から何度もおっしゃっていますね。僕に迷惑をかけたくないと……。だけどね、リビラさん、あなたがここに来られることは、迷惑などではありませんよ」


「そうなんですか? でも先生、昨日はすごく困ってて……」


「あれは迷惑だったからではありません。ただ信じられなかったのです。あなたが……僕があなたに抱いているのと同じ感情を、僕に抱いてくださっているなどと」


 リビラが軽く息を呑んだ。レイクは狂おしい思いで続けた。


「……あのまま衝動に身を任せてしまうことは簡単でした。だけど、僕はそうしたくなかった。それは単に医者の職業倫理からではない。あなたをそんな風に軽々しく扱いたくはなかったんです。

 僕にとって……あなたは初めて会った時から特別でした。あなたは気丈で、ひたむきで、誰かの役に立つことだけを願っていた……。あなたは僕とは違い、人の幸福を心から願うことのできる人間です。だからこそあなたはこの街の方々に慕われ、僕もまた……あなたに惹かれていった」


 レイクはそこで一旦言葉を切った。本心を吐露したことで肩から少しだけ力が抜けたが、それでもリビラの手を離そうとはしなかった。


「だけど……僕はあなたとは違う。医師という仕事に就いてはいますが、あなたのように人の幸福のために心血を注げるわけではない。人は僕を優しい人間だと評しますが、それは外面に過ぎないんですよ。本当の僕は、もっと冷たく、傲慢で、そして嫉妬深い……。人に見せられないような醜い面をたくさん抱えているんです。

 僕のような人間は、あなたには相応しくない……。そう思っていたからこそ、今日まで本心をお伝えすることができなかったんです」


 遠くから人の声が聞こえてくる。そろそろ住民が起き出す時刻なのだろう。只ならぬ雰囲気で見つめ合っているこの場面を見られたら、あらぬ噂を立てられるかもしれないと思ったが、構わなかった。


「だけど、今のあなたの言葉を聞いて考えが変わりました。リビラさん……僕はこれ以上あなたを放っておけない。あなたが一人でいろいろなものを抱え込み、傷ついているのを黙って見ていられないんです。

 僕はあなたが思っているような善良な人間ではありません。水晶魔術師クリスタル・マジシャンでもなく、あなたの苦労や悩みを理解することはできないかもしれない……。

 だけど……それでも僕は、あなたを支えたいと思うんです。……医師ではなく、一人の男として」


 そこまで言い終えたところで、レイクはようやく自分の本心に触れた気がした。


 あぁそうだ、僕はずっとこの言葉を伝えたかったのだ。水晶魔術師としての彼女に抱く妬心、それを乗り越えてでも彼女を支えたいのだと。

 過去に引き摺られるのではなく、過去を断ち切った上で、彼女と共に未来を築いていきたいのだと。

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