1−9
レイクは目を細めて暗い天井を見つめていたが、やがてため息をついて目を閉じた。
今日はあまりにも心身を酷使しすぎた。これ以上精神を摩耗させることもない。さっさと思考を中断し、早く仮眠を取ることにしよう。そうすれば全てを忘れられる。封印したはずの恥辱も、妬心の混じった彼女への情愛も――。
それでも眠りは一向に訪れず、やがて朝を告げる鳥のさえずりでレイクは重い瞼をこじ開けた。手のひらで目を擦って時刻を確認する。午前六時。結局一睡もできなかった。これなら最初から机で寝ていた方がよかったかもしれない。
しばやくぼんやりした後、レイクは眼鏡と白衣を身に着けて立ち上がった。最初は診察室へ向かおうとしたが、途中で思い直して寝台のある小部屋に向かった。リビラはもう起きているかもしれない。この時間なら訪ねても失礼には当たらないだろう。
彼女のことを意識から追い払おうとしながらも、真っ先に彼女のことを考えてしまう自分がレイクは情けなかったが、患者の安否を見届けることは医者としての責務なのだと言い聞かせた。
リビラはすでに目を覚ましていた。早くから起き出していたのか、入院着からいつものコートに着替え、髪も三つ編みに結っていた。頬の傷は相変わらず痛々しかったが、それでも睡眠を取ったせいか昨日よりも顔色はいい。
「おはようございます、リビラさん。お加減はいかがですか?」レイクが寝台の傍に立って尋ねた。
「はい、おかげさまでだいぶよくなりました。薬が効いてるみたいで、痛みも昨日より引いてる気がします」
「それはよかった。夜はよく眠れましたか?」
「はい。最初は緊張感もあったんですけど、途中から何となくリラックスしてきて……入院なんてしたことないのに不思議ですね」
リビラがふっと笑みを零す。柔らかなその表情からは、昨日までの張りつめたような気配は失われていた。朝を迎えたことで気持ちも一新されたのだろう。そのことにレイクは安心したが、少しだけ残念な気持ちもあった。
「あの、それより先生は大丈夫ですか? ちょっとお疲れみたいですけど」
「あぁ……昨日は眠れなかったもので。疲れが顔に出てしまっているのかもしれませんね」レイクが苦笑した。
「そうなんですか……。すみません、あたしのせいで迷惑かけちゃって……」
「いえ、眠れないのはよくあることですから、お気になさらないでください。それよりもこれからどうされますか? もうお帰りに?」
「え? あぁ……そうですね。もう朝ですし、帰らなきゃいけないですよね。先生も開院の準備があるでしょうし……」
言いながらもリビラはぐずぐずしていてい、すぐに寝台から立ち上がろうとしない。まだどこか具合が悪いのだろうか。
「もしお加減がすぐれないようであれば、もう少し休んでいただいても構いませんよ。重病の患者さんが急に増えることもないと思いますので」
「ううん……でもやっぱり帰ります。シリカももうすぐ帰ってくると思いますし。それに……あんまり長居して、先生のこと困らせたくありませんから」
リビラが寝台に視線を落として言う。何となく横顔が気恥ずかしそうに見えるのは、昨晩のこと思い出しているからのかもしれない。深夜の診療所に二人きりという状況の中で、何となくお互いを意識してしまい、故意か無意識かはわからないが、レイクに誘いをかけるような真似をしまった。そのことを恥じているのかもしれない。
だけどレイクは、彼女に困らされたという自覚はない。むしろ逆だ。意中の女性と、まるで恋人同士のように親密な雰囲気を味わえたこと。たとえ一時のことではあっても、それはレイクにとって甘美な、忘れがたい記憶だった。できることなら、これを一夜だけの夢ではなく、現実に根を下ろした日常としてこの先も続けていきたかった。
もしかすると、リビラの方もそれを望んでいたのかもしれない。だからこそ長く診療所に留まり、別れを前にして決断ができずにいる。ひとたび外に出てしまえば、昨夜の記憶が幻として霧散してしまうことを怖れて。
だとすれば、自分はここで彼女に声をかけるべきなのだろう。これからも、あなたの傍にいさせてほしいと――。
だけど、それを口にすることにはためらいがあった。彼女は
自分一人ならまだいい。問題は、リビラをそれに巻き込む危険性があることだ。
今は純粋な情愛であっても、彼女と長い時間を過ごすうちに、情愛の中に憎しみが混じらないとも限らない。
レイクはリビラをそんな目で見たくなかった。彼女の傍で妬心に身悶えるくらいなら、ささやかな羨望の的として、遠目から彼女を眺めることを選びたかった。
「……それでは、準備を済ませたら玄関までいらしてください。僕は待合室でお待ちしておりますので」
あくまで丁重さを保った口調で言い、レイクが一礼してから部屋を出て行く。出て行く直前までリビラの視線が背中に注がれるのを感じたが、振り返ることはしなかった。
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