1−8

 シーツの皺を伸ばし、枕の位置を整えてからレイクはリビラを寝台に案内した。寝台と言っても簡素なもので、床板は硬く、お世辞にも寝心地がいいとは言えない。家のベッドの方がよほどゆっくり眠れるのではないかと思ったが、リビラは自分の意見を変えようとしなかった。寝台に腰かけ、ぼんやりと古びた壁を見つめる。


「入院着は置いておきますから、必要があれば着替えてください」レイクが言った。

「他にも何か必要な物があれば遠慮なくおっしゃってください。僕は診察室にいますから」


「はい……。でも本当にごめんなさい。自分から言い出しといてなんですけど、すごく迷惑かけてますよね。患者がいたら先生だって家に帰れないし……」


「僕のことならお気になさらないでください。診療所に泊まり込むことは珍しくありませんので」


「そうですか……。先生はどこでお休みに?」


「特に場所は決めていません。待合室のソファーで眠ることもありますし、カルテを書きながら机で眠ってしまうこともあります。誰もいない時はこの寝台を使わせてもらうこともありますが、今日はここに来ることはないでしょうね」


「そう、ですか……」


 そう言ったリビラの表情に落胆が滲んでいたように思えたのは気のせいだろうか。的確な診断に定評のあるレイクも、リビラのことになると途端に判断力が鈍ってしまっていた。


「……では、どうぞゆっくりお休みください。朝までこちらには来ませんので……」


 自分に言い聞かせるように言った後、レイクがそっと寝台の周りのカーテンを閉めた。しばらくは無音だったが、やがてかすかな衣擦れの音が中から聞こえた。リビラが入院着に着替えているのだろう。レイクはその音を聞かないようにしながら部屋を出て行った。




 その後、レイクは中断していたカルテの記入に集中しようとしたが、どうにもリビラのことが気になって仕事が進まなかった。寝台のある小部屋は診察室とはドアと壁で隔てられており、ここから様子を窺い知ることはできない。

 レイクは三十分に一度は立ち上がってはそっと小部屋のドアを開け、カーテンの外側から耳を澄ませてリビラの様子を窺った。寝台からは何の物音もしない。すでに寝入っているのだろうか。それともやはり落ち着かずに眠れないのだろうか。いずれにしても声をかけることはできない。レイクは後ろ髪を引かれながらも小部屋を後にした。


 三度目に部屋を訪れた時、ようやく寝台から寝息が聞こえた。どうやら無事に眠れたようだ。彼女が寝入ったと思うとレイクも安心し、それからはようやく仕事に集中することができた。溜まったカルテの記入を終え、薬品棚をチェックして薬品を補充する。


 全ての仕事が終わった時には四時を回っていた。深夜まで残業するのは珍しくないが、それにしても今日は遅くなってしまった。単に長く働いただけでなく、随分と神経を使った気がする。椅子の背もたれに身体を預け、疲れを解すように眉間を揉む。いつもならこのままテーブルに突っ伏して眠ってしまうところだが、今日は大事な患者を預かっている。少しでも元気な状態で朝を迎えられるよう、楽な体勢で仮眠を取っておいた方がいいだろう。レイクはそう考えて待合室へと向かった。


 深夜の待合室は静まり返っていた。明かりがついていない廊下は勝手を知っていても未知の場所のようで、どこか不安な気持ちにさせられる。本当は診察室にソファーを持ち込みたいのだが、医学書や薬品が山積みになっているせいで置き場所がなかった。とはいえ、今日寝台を使うわけにはいかない。


 レイクは一番広いソファーに身を横たえると、受付に置いてある毛布を引っ張ってきて被った。白衣を脱いで畳み、眼鏡を外してその上に置く。疲労が溜まっているはずなのに不思議と眠気は訪れず、考えるのはリビラのことばかりだった。


 自分が彼女をどう思っているかはもはや疑いようがない。初めて出会った時からうっすらと感じてはいたが、今日ほど強く彼女の存在を意識したことはなかった。

 だが、それは突然生じた感情ではなく、この一年間で蓄積されたものなのだろう。人のために自分の魔力を役立てたいという切実なまでの願い。それを実行するべく努力を続ける彼女の姿をこの一年間で何度も見てきた。彼女は自分がどれだけ傷ついても与えられた力から逃げようとせず、自らを鼓舞して訓練に励んできた。そんな彼女のひたむきな姿に心惹かれたことは理解できる。


 だが、その感情に身を任せてしまうことの危険性も、レイクはよくわかっていた。


 彼女は自分にはないものを持っている。自分がどれほど手に入れようと渇望し、努力を重ねても決して得られなかったものを生まれながらに手にしている。そのことで時折心が乱され、修羅を燃やさなかったかと問われれば嘘になる。彼女が氷結召喚フリージング・サモンの練習をする姿を見るたび、術に失敗してボロボロになる彼女を不憫に思う一方で、失敗すらできない自分との境遇の差に心が掻きむしられたのも事実だ。


 なぜ、僕は彼女と同じ立場でいられなかったのだろう。彼女の練習風景を遠目から見守るのではなく、彼女の隣で自分も杖を手にし、訓練に臨むことができなかったのだろう。お互いの存在をよすがとし、努力すれば必ず力は発現するのだと励まし合って。そうすればもっと自然に関係を深めることもできたはずだ。

 医者と患者ではなく、水晶魔術師クリスタル・マジシャンの同志として――。


 だが、自分達が永遠にそのような関係になれないことはわかっていた。だからこそレイクはリビラを意識しながらも、距離を縮めるための行動を起こす気になれなかった。


 彼女は思慕の対象であると同時に、嫉妬の対象でもあった。彼女と関係を結ぶことは、自分も彼女も幸福にはしない。そう理解していたからこそ、度重なるリビラの意味深な言動を目にしても、レイクは自らの衝動に打ち勝つことができたのかもしれなかった。

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