1−7

 最後に軟膏を塗布したのは頬の傷跡だった。顔は自分で塗った方がいいのではないかとレイクは勧めたのだが、リビラはついでだから塗ってほしいと言った。だからレイクも承諾したのだが、先ほどの気詰まりな空気を思い出し、必要以上に彼女に顔を近づけないように神経を使った。頬に触れられてもリビラは最初のように驚いた様子を見せず、じっと目を伏せて彼に触れられるがままになっていた。


 だが、それでも時折目が合い、至近距離で視線を交わす中で、レイクは彼女の瞳の中に一抹の期待を感じ取っていた。もっと近づいて、頬だけでなく、別の場所にも触れてほしいという期待――。もちろん、自分の願望が見せた幻想だった可能性もあるが。


 長い時間をかけて手当てを終えた頃には一時間近く経っていた。ただ薬を塗って包帯を巻いただけなのに、大きな手術をした後のような徒労感に襲われた。このままでは神経が持たない。自分も彼女も早く休んだ方がいいだろう。


「……随分と時間がかかってしまいましたね。普段はもっと早く終わるのですが……」


 短くなった包帯を片づけながらレイクが言った。時計を見ると零時を過ぎている。かれこれ二時間近く彼女と二人で過ごしてしまったようだ。


「帰りが遅くなっては妹さんも心配されるでしょう。気が回らなくて申し訳ありませんでした」レイクが頭を下げた。


「あ、いえ……妹のことなら気にしないでください。今日ヘーデルさんのところに泊めてもらうことになっているので、帰ってこないんです」


「ほう、妹さんはヘーデルさんと仲がよろしいのですか?」


「はい。家が近所なので、孫娘みたいな感じで可愛がってもらってます」


「それはよかった。幼い妹さんに一人で留守番をさせるのは心配ですからね」


「はい……。だから、帰りが遅くなっても気にする人はいませんので……」


 リビラが髪をいじりながら落ち着かない様子で言う。ピンでまとめていた髪は今は下ろされ、ウェーブがかった長い髪が肩や背中に落ちていた。


「そうですか。ただ、こんな夜更けに女性が一人で出歩くのは心配ですね。よかったら家までお送りしましょうか?」


「あ、いえ……。そんな、これ以上ご迷惑をおかけするのはさすがに……」


「構いませんよ。あなたの身に何かあってはいけませんので」


 やはり無意識に口にされた言葉に、リビラが胸を衝かれた様子で顔を上げる。視線を落としてしばし逡巡した後、やがて意を決した様子で切り出した。


「それじゃ……先生、お願いを聞いてもらえませんか? あ、でも、送ってほしいとかそういうことじゃないんです。むしろその逆って言うか……」


「逆?」


「はい……。できればなんですけど、診療所でこのまま一晩休ませてもらえませんか? あたし、なんか疲れちゃって……家まで帰れる気がしないんです。

 もちろん夜中に先生を呼びつけたりはしませんし、料金はその分上乗せしてお支払いしますから……」


 レイクは困惑してリビラを見返した。重症患者が運ばれてきた際には入院させる場合もあり、診療所には寝台が三台備えつけられている。今は全ての寝台が空いており、彼女を受け入れる余裕はある。だが、それが果たして正しいことなのか、レイクには判断がつかなかった。


 レイクが返事をしないでいるのを見て、彼の困惑を感じ取ったのだろう。リビラが不意に自嘲気味に笑って言った。


「……ごめんなさい。入院の必要もないのに泊めろだなんて……こっちの方が迷惑ですよね。先生だって患者がいつまでもいたら落ち着かないだろうし……」


「いえ……僕としても、近くであなたの容態を確認できた方が安心はできます。ですが、診療所で一夜を過ごすなど、あなたの方こそ落ち着かないのではありませんか?」


「あたしは大丈夫です。……先生が、傍にいてくれるなら」


 リビラが意味ありげな視線を向けてくる。それを見てレイクはまたしても心を動かされそうになったが、理性を保って頷いた。


「……わかりました。では、ベッドの用意をしますので少しお待ちください」


 手短に言ってレイクは椅子から立ち上がった。診察はとっくに終わっているのに、彼女はなぜかコートを着ようとしなかった。下ろした髪を指でもてあそび、時折何かを求めるような視線を向けてくる。

 そうした仕草の一つ一つが、彼女も自分と同じ気持ちなのではないかという錯覚を抱かせたが、その楽観的な考えをレイクは受け入れる気にはなれなかった。


 この一夜の経験を得て、自分がリビラをただの患者と思っていないことは自覚したが、だからといって医師の立場を利用し、性急に事を進める気にはなれなかった。


 自分達の関係は、微妙な均衡の上に成り立っている。少しでも間違った行動をして、この関係が崩れるのが怖かったのだ。


 レイクはリビラと目を合わせないまま寝台の方へと向かった。彼女の脇を通る際、仄かに漂う甘い匂いが鼻腔を突いた。初めて会った時にも感じた、リビラの髪の匂い。それが自分を引き留めているような気がしたが、レイクは振り返らなかった。


 これ以上彼女の存在を感じていたら、本当に一線を越えてしまいそうな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る