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 その名前を知るのに時間はかからなかった。患者にそれとなく水晶魔術師クリスタル・マジシャンの話を聞くと、すぐに噂を聞き出すことができたからだ。


 彼女の名前はリビラと言った。まだ十九歳で、八歳年下の妹と二人で暮らしているらしい。

 リビラは面倒見のいい性格らしく、街の人々はいつも彼女の力に助けられているようだった。井戸の水を凍結させて台所に運んだり、雨水を凍結させて生活用水にしたりといったささやかなものだったが、それでも街の人々は感謝しているようだった。


 レイクからすれば、彼女は今のままでも住民の役に立っていると思えたが、本人にとっては十分ではないのだろう。水晶魔術師の本領である術、氷結召喚フリージング・サモンが使えなければ意味はないのだ。


 それまでは一日の大半を診療所で過ごしていたので気づかなかったが、いざ街に出てみると、レイクはリビラの姿を時々見かけることができた。


 リビラは噴水や運河の近くでステッキを持ち、川の水に向かって呪文を唱えていた。彼女のステッキの動きに合わせて水が持ち上がり、空中で凍結を始めるのだが、大抵は途中で止まって水飛沫を散らすか、あるいは凍ったまま砕け散って氷片を落としていた。氷片は石畳に落ちる時もあったが、勢いがついてリビラ自身に振りかかることもあった。この前の怪我もあれが原因だろう。

 頬や衣服に切り傷を付けながら術を繰り返すリビラを見るたび、レイクは駆け寄ってステッキを取り上げたい衝動に駆られたが、懸命に堪えた。


 遠目からリビラを観察していると、彼女の傍に時々幼い少女がいることに気づいた。青い髪をおかっぱにした少女で、ベンチや川縁に座っては、リビラが術を行使するのを興味深そうに眺めていた。あの子がリビラの妹のシリカなのだろう。


 シリカは水が動くのが面白いのか、水が持ち上がったり空中で飛び散ったりするたびにきゃっきゃと手を叩いて笑っていた。術に失敗したリビラもその笑顔を見ると笑みを漏らし、妹の隣に座ってまた水を遊ばせてやっていた。遠目から見てもその様子は仲睦まじく、レイクも微笑ましい思いで二人の姿を眺めていた。


 ただ、そんな風に時折リビラの姿を見つめながらも、レイクが彼女に声をかけたことはなかった。


 もちろん街で偶然顔を合わせることや、彼女が術に失敗して診療所に来ることも何度かあり、その時には世間話や治療に関する話をした。

 だが、それ以上に突っ込んだ話――お互いの家族の話や過去の話などに触れることはなかった。


 レイクとしては、できれば彼女を食事などに誘ってもう少し深い話をしてみたかったのだが、できなかった。単に勇気が出ないだけでなく、彼女と話をすることで、忘れかけた古傷が疼くことを怖れたのだ。


 そういうわけで、レイクはリビラのことを意識しつつも、特に関係の進展が見込めないまま歳月を過ごすことになった。


 


 二人の関係が変化したのは、リビラが初めて診療所に来てから一年後のことだった。


 その日、レイクはいつになく多忙を極めていた。朝から晩までひっきりなしに患者が訪れ、しかもその多くは深刻な病状を訴えていた。診察をしてみると大半は問題がないとわかったが、それでも患者は納得がいかないのか、もっとよく調べてくれとせがみ、検査などをしているとゆうに三十分はかかってしまった。おかげで全員の診察を終える頃には診察終了時刻を大幅に過ぎ、夜の十時を回ってしまっていた。


 最後の患者を帰したところで、レイクは一人ぐったりとして椅子にもたれかかった。肘掛けに手を置き、ため息をつきながら髪を搔き上げる。

 医師になって以来、多忙な生活には慣れてきたつもりだったが、今日はさすがに少し堪えた。この街の人達は少し自分を当てにし過ぎている気がする。人に頼られるのは悪い気はしないが、あまり些末なことで頼られてもこちらの身がもたない。そもそも医者は何でも屋ではない。人生相談や家庭の愚痴まで聞いてやる必要はないのだ。

 そう考えながらも、レイクがそうした悩みを持ち込む患者を邪険にできないのは、善良な医師という自ら築き上げたイメージに縛られているからに過ぎなかった。


 しばらく考え込んだ後、レイクは椅子の背もたれから上体を起こして机に向き直った。机の端に積み上げたカルテを手に取って記入する。この程度のことで根を上げてはならない。自分は望んで医者になった。夢破れた空虚さを埋めるため、血の滲むような努力をして今の地位を勝ち取ったのだ。

 ミストヴィルが誇る名医として自分は生きていく。そうでなければ、どうしてこの心の穴を埋めることができるだろう?


 レイクが夢中でペンを走らせていると、入口の方から性急なノックの音が聞こえた。こんな時間に誰だろう。十時を過ぎたこの時間に来客があるとは思えない。もしかして急患だろうか。レイクは急いで立ち上がって入口へと向かった。


 入口の扉を開けると、最初は闇しか目に入らなかった。いつもは煌びやかなミストヴィルの街並みも、夜になればひっそりと静まり返っている。わずかな街灯の中に石造りの建物がいくつも鎮座する光景はどこか不気味で、自分が知らない街にいるような気分になった。


 その街を背景に一人の人物が立っていた。近くにある街灯は切れかかっているのか点滅しており、その人物のシルエットだけがぼんやりと浮かび上がっている。闇の中で聞こえる苦しげな吐息。レイクはその人物の姿をよく見ようと距離を詰めた。


「どうされましたか? すでに診察時間は終了しています。お急ぎでなければまた明日に……」


 そこで点滅していた街灯の灯りが点き、レイクの前にいる人物の姿を照らし出した。


 そこに立っていたのはリビラだったが、一目見たところでレイクは彼女の様子がおかしいことに気づいた。コートは一面切り傷が付いていて、肌がところどころ露出している。三つ編みも半分ほどけかけ、ざっくりと切られた頬からは血が滴っていた。片手で肩を摑み、荒い呼吸を繰り返す姿は見るからに満身創痍の体を成していた。


「リビラさん? いったいどうされたんですか!?」


 只ならぬ事態を悟ってレイクがリビラに近づく。リビラはレイクを見上げて口を開こうとしたが、その前に力尽きて彼の腕の中に倒れ込んだ。咄嗟に抱き留めるとその身体は驚くほど軽かった。いったい彼女の身に何があったのだろう。


 レイクは困惑しながらも、急いでリビラを抱えて診療所へと運び込んだ。

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