1−2

  午前中の診療時間はあっという間に過ぎ、ようやく一通りの診察を終えた頃には早くも二時を回っていた。

 夕方の診察は五時から始まる。それまでに午前中の患者のカルテをまとめておかなければいけない。薬もいくつか処方したので薬品の補充も必要だ。もし足りない薬品があれば薬草から調合しなければならない。この分では今日も昼食を取る暇はなさそうだ。


 だが、そうやって忙しく過ごすことはレイクにとって苦痛ではなかった。むしろ、自分が街の人々から必要とされていることが喜ばしかった。


 その時、入口のドアの開くカランカランという音がした。受付終了のプレートはドアに下げていたはずだが、誰かが気づかずに入ってきたのかもしれない。急患でなければ出直してもらった方がいいだろう。レイクはそう考えて待合室に向かった。


「すみません。午前中の診察は終了したんです。夕方は五時から開けていますので、後ほど改めて来ていただけますか……」


 レイクはそこで言い淀んだ。入口の前には女性が一人で立っていた。青い髪を長い三つ編みにし、水色のコートを着た若い女性だ。険しい顔で右の二の腕を押さえている。


「……ごめんなさい。やってないのはわかってたんですけど、他にどこに行けばいいかわからなくて……」


 言いながら女性の身体が前に倒れたので、レイクは慌てて彼女の前に行って身体を支えた。遠目で見るよりも細い身体だった。髪から仄かに甘い香りが漂う。

 だが、それよりも気になったのは露わになった彼女の右腕だった。破れたコートに血が滲んでいる。


「……怪我をしているじゃないですか! すぐに見せてください!」


 血相を変えて言い、レイクが女性の手を引いて診察室に案内しようとする。だがなぜか女性は動こうとしなかった。


「でも……診察時間は終わったんでしょう? そんな大した怪我じゃないし、やっぱり自分で何とかします」


 女性は辛うじて笑みを浮かべて言い、待合室から出て行こうとする。だがレイクは彼女の肩を摑んで引き留めた。


「待ってください。どれだけ重傷かわからないんですよ? 帰る前に倒れでもしたらどうするつもりなんですか?」


「そんなやわじゃないから大丈夫です。うちはすぐ近くで、十分もあれば着きますから」


「その十分の間に何かあったらどうするんです? いいから来てください」


「でも……」


「話は中で聞きます。お代も結構ですから、さぁ、早く」


 レイクが今一度女性の手を摑んで診察室に連れて行こうとする。女性はなおもためらっていたが、やがて観念したように頷いて付いてきた。


 診察室の椅子に女性を座らせたところで、レイクはコートの袖を捲ってもらって彼女の傷の具合を調べた。幸い、そこまで重傷ではなく、擦り傷が重なったために血が上部まで滲んでいただけだった。


「さほど深手ではないようで安心しました。ですがそのままにはしておけませんね。軟膏を塗って包帯を巻いておきましょう」


 レイクは表情を緩めて言うと、薬品棚に向かって軟膏を探した。包帯も取り出して一緒に持ってきたが、女性はまだぼんやりとして座っていた。


「どうされましたか? どこか気分でも悪いのですか?」


「あ、いえ……なんか申し訳なくて。大した怪我じゃないのに手間取らせちゃって……」


「僕が好きでしたことですから気になさらないでください。それよりも薬を塗らせてもらってもよろしいですか?」


「あ……はい。どうぞ……」


 女性がのろのろと腕を差し出す。レイクはビニール製の手袋をはめ、屈み込んで軟膏を塗ろうとしたが、コートの袖が落ちてくるせいで上手く塗布できなかった。


「すみません。一度コートを脱いでいただいてもよろしいでしょうか? 袖が当たって塗りにくいもので……」


「え、でも……」


 女性が明らかに困惑した顔になってレイクを見つめてくる。レイクは最初その理由がわからなかったが、少し恥ずかしそうな彼女の表情を見てようやく合点がいき、申し訳なさそうに眉を下げた。


「……あぁ、そうですね。女性を相手に失礼なことを申し上げました。薬と包帯は差し上げますので、ご自宅で手当てしていただけますか?」


「……あ、はい。こっちこそすみません……」


 女性が顔を背けてうつむく。何となく気まずい雰囲気が漂ったが、レイクは気を取り直すように咳払いをした。


「それにしても、その傷はどうなさったんですか? 何か事故でも?」


「あ……いえ、その、ちょっと術に失敗しちゃって……」


「術?」


「はい……。実はあたし、水晶魔術師クリスタル・マジシャンなんです」


 その単語を聞いた瞬間、レイクは顔が強張るのを感じたが、努めて冷静さを装った。


 女性は話を続けようとしたが、そこでふと思い出した様子で言った。


「あ、でも先生って確か、最近この街に引っ越してこられたんでしたっけ。だったら水晶魔術師もご存知ないですよね?」


「いえ、存じ上げていますよ。この街の宝である水晶を守るため、盗賊と戦う英雄……。僕が王都にいた頃からその噂は何度も耳にしていましたから」


「そうですか。あたしは二年前から水晶魔術師になったんです。でもまだ半人前で……術が使えないので実戦はできていないんです」


「水晶魔術師の術……。確か氷結召喚フリージング・サモンでしたか。水を凍らせて魔物を生み出す魔法でしたね」


「はい。よくご存知なんですね? 水晶魔術師のこと」


「僕は王都に行く前はこの街で暮らしていましたから、水晶魔術師の活躍は当時から見聞きしていたんですよ」


「そうなんですか。でもあたし、自分が情けなくって。せっかく魔力を持って生まれたのに、まともに術も使うこともできないなんて。これじゃ普通の人間と同じじゃないですか」


 女性が何気なく言った言葉がレイクの心に突き刺さった。魔力、普通の人間……。とうに捨て去ったはずの記憶が呪いのように蘇ってきたが、努めてそれを表に出すまいとした。

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