氷結の魔術師 ―雫の追憶―

瑞樹(小原瑞樹)

雫の追憶

五年前 ―出逢い―

1−1

 クリスティアラ東部に位置する街、ミストヴィル。石造りの外壁にパステルカラーの丸屋根を被せた建物の間を、運河が縫うようにして流れている。石畳の路上では商人が露店を連ね、客を呼び込もうと活気のある声を上げている。美しく可愛らしい街並みに加えて、希少な水晶を加工した宝飾品が販売されるこの街は観光地としても人気で、街は時期を問わず賑わいを見せていた。


 そんな喧騒から外れた街の外れに一つの小さな建物がある。他の建物とは違って簡素な木作りの建物で、屋根も同じく木製だ。建てられてから年月が経っているのか建物は古く、他の石造りの家々に比べるとお世辞にも立派とは言えなかった。


 にもかかわらず、その建物には毎日長蛇の列ができていた。並んでいるのはほとんどが住民で、咳をした老人、ぐずる子どもをあやす母親など、老若男女問わず様々な人が朝から列を作り、建物の扉が開かれるのを待っている。事情を知らない観光客はその列の前を通るたび、ここはいったい何の店なのだろうと不思議がった。


 やがて朝の九時を迎えたところでようやくその建物の扉が開かれた。軋む木の扉を開けて現れたのは一人の青年だ。長身痩躯に水色のワイシャツを着て、襟元にはきっちりとネクタイを締めている。細身の黒いズボンで覆われた足は長く、白地の皮靴は綺麗に磨き込まれている。

 だが、そうした服装よりも目を惹くのは、高い鼻梁の上に乗った銀縁眼鏡と、ワイシャツの上に羽織った白衣だろう。


「お待たせしました。順番にご案内しますので、中にどうぞ」


 青年が落ち着いた声音で言った。その声を聞いた瞬間、老人の咳が急に収まり、ぐずっていた子どももぴたりと泣き止んだ。それは、彼の姿を見た時に街の人々が抱いた安心感が、呼吸器や内心にまで伝わったからかもしれなかった。


 ここは街で唯一の診療所。この青年は医師なのだ。




 最初の患者は老婆だった。一人暮らしをしているヘーデルという女性で、毎日のように診療所に通っている。頭痛、腰痛、不眠など、いろいろと理由をつけてはいたが、どちらかというと一人暮らしの退屈を紛らわせる目的の方が大きかった。青年医師もそのことに気づいてはいたが、それでも嫌な顔一つせずに彼女の話を聞いた。


「それで、ヘーデルさん、今日はどうされましたか?」


「それがですのう、先生。どうも胸が痛くて、心臓がバクバクして止まらんのですじゃ」ヘーデルが節くれ立った手で自身の胸を押さえた。


「ほう、動悸ですか。症状はいつから?」


「昨日の夜からですじゃ。夕食を食べた後ぐらいからどうも調子が悪うて。音が気になって夜もほとんど眠れなかったんですじゃ」


「それは心配ですね。では、少し胸の音を聞かせていただいてもよろしいですか?」


 青年医師が聴診器を装着しながら尋ねる。ヘーデルは頷くと、恥ずかしがる様子も見せずに衣服を捲りあげた。青年医師も顔色を変えず、真剣な表情で聴診器を胸に当てる。何度か位置を変えて胸の音を聞き取った後、医師は耳から聴診器を外して言った。


「特に異音は聞こえませんでした。おそらく一過性の症状だとは思いますが、念のために薬を処方しておきましょう。一週間ほど様子を見て、症状が続くようであればまたいらしてください」


「へえ、ありがとうございます。薬があれば夜も安心して眠れますだ。やっぱりレイク先生は頼りになりますじゃ」


「大袈裟ですよ。それに病気でないと決まったわけでもありませんから、気になることがあればいつでもいらしてください」


「へえ、何でも先生の言うとおりにいたしますじゃ」


 そんな会話を続けた後、ヘーデルはへこへこと頭を下げて診察室を出て行った。


 青年医師――レイクは立ち上がって彼女を見送った後、急いでカルテに記入を始めた。




 その後も患者はひっきりなしに訪れたが、レイクは誰のことも邪険にせず、一人一人に丁寧に対応した。咳き込む老人には背中を擦ってやり、泣き出す子どもには気を紛らわせるような話をし、ただの暇潰しと思える老人でさえも五分程度は話を聞いてやった。


 そんな風に時間をかけて診察をするので患者はなかなか減らなかったが、待合室にいる人は誰一人文句を言わなかった。

 彼が診察に時間をかけるのは誠実さの表れであり、その姿勢は街の人々にも評価されていた。だから待ち時間が長いことは、それだけ自分にも時間をかけて向き合ってもらえるという期待をもたせる結果になっていた。


 そして実際、彼の診察を受けた後では誰もが病状がよくなった気がして、晴れやかな顔をして帰っていった。患者一人一人に寄り添う名医として、レイクの住民からの評判はすこぶるよかった。

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