第4話 管理者移譲手続き書

 自分の格好よりも先に布団の洗濯の心配をするというのは年頃の娘としていかがなものか。

 そう狸に説教されながら浴室へ案内される。

 確かに全身に固まった血がこびりついて髪はバリバリ、着衣は破れ肌が覗いている。

 そんな格好で先程まで、女と見紛うほどの美青年と話をしていたのだ。普通の娘ならば失神物なのかもしれない。

 ――だが、不由ふゆは人間相手ならば多少気を使うものの、物の怪相手に使う気など持ち合わせていなかった。

 ちなみに人間相手に気を使うのは、粗相した噂が広まって両親に小言を言われるのが面倒だという理由である。


「さあここだ」


 案内された先はさすが迷い家まよいがの浴室らしく、広い脱衣所にも浴室にも汚れ一つなく、さらに大きな湯船にはたっぷりと湯が張られてホカホカと湯気をあげていた。


「入っていいの?」

「そのために家が用意した」

「そう。ありがとう」


 そう言って不由が服を脱ぎ始めると、狸が「キャーッ」と悲鳴を上げた。


「お前には恥じらいがないのか! 俺は男だぞ!」

「……狸が雄か雌かなんて気にしたことがなかったわ。見たくないなら早く出ていきなさいな」

「まったく! とんでもない娘だ!」


 狸が毛を逆立ててプリプリ怒りながら脱衣所から出ていくのを見送った不由は、改めて服を脱ぎ、浴室に入った。

 桶に掬った湯船の湯で血を洗い落としていく。

 透明に透き通った湯はあっという間に赤黒く染まり排水口に飲み込まれていく。それほどの血が流れ出たというのに、不由の肌には傷一つ残っていなかった。



***



 用意されていた浴衣を身に着けて先程の部屋まで戻ると、そこでは男と狸と鴨が座卓を囲んでお茶を飲んでいた。


「トリが増えてるわ」

「おかえり」

「おお、これが件の尚行なおゆきの孫か」


 湯呑にくちばしを突っ込んでぺしょぺしょと茶を飲んで(?)いた鴨が顔を上げ、流暢な日本語で喋りだした。

 鴨の声は好々爺じみた響きをもっていた。その声に、狸の甲高い声がかぶさる。


「そうだ、噛み付かれるから気をつけろ」

「お茶請けに狸鍋でも作ろうかしら」


 不由の言葉に狸は毛を逆立てて座卓の下に逃げ込むが、男がその首元を掴んで引っ張り出した。


「この狸はたすくという。これを食べられてしまうと色々困るので勘弁してやってほしい。そちらの鴨は鴨川かもがわさんだ」

「鴨の鴨川さん」

「尚行がつけた。あいつの名付けはセンスがない」


 しみじみとした口調で鴨川さんが言う。分かるわ……と不由も遠い目になる。


「さて、迷い家管理人の移譲手続きだったな。現在、白露はくろ様が管理者代行、不由嬢は管理者代行が推薦する臨時管理人という扱いになっている」

「……はあ……」


 鴨川さんはそう言いながらくちばしで自分の羽根を一枚抜き、宙に放った。

 ひらひらと落ちてくる羽根は途中で一枚の紙に変わる。鴨川さんがその紙の隅の方をくちばしで軽くコツコツ叩いた。


「白露様の署名はすでに頂いているので、ここに不由嬢が署名すれば正式な管理人となる」

「……はくろさまってだれ?」

主様ぬしさまに決まっておろう!」


 その『主様』の膝の上で撫でられてとろけていた狸……もとい佑がキーキー騒ぐ。


「川の管理人は白露っていうのね」

「呼び捨てとは……!」

「呼び捨てで構わないよ。尚行もそう呼んでいた」

「主様、お心が広い……!」

「佑は少々白露様への信仰心が過剰なところがあるでな。まあとりあえず署名してくれるか、不由嬢」


 感涙にむせぶ佑に白い目を向けていた不由は、鴨川さんの言葉に改めて書類に目を落とす。

 ざっと内容を読んでみると本当に事務的な物件の管理者移譲手続き書だった。


「物の怪なのにちゃんとしてるのね……」

「なにせ年齢の分布が広い世界だからな、昔の口約束など持ち出されてはたまらん。きちんと書面で管理していかないとあちこちで揉め事が起こってしまうのだ」

「物の怪の世界も大変ね……」


 白露がペンを差し出してきたので受け取って書類に署名する。

 不由が名前を書き終わりペンを紙から離すと、書類はまるで雪の結晶のようにすうっと溶けて消えてしまった。


「これで不由嬢が正式にこの家の管理人になった。尚行の使っていた入り口がそのまま使えるだろうから、迷人の行き来は問題ないだろう」

「入り口?」


 こんなおかしな空間につながっている入り口などまったく心当たりがなくて不由は首を傾げる。すると白露が説明を付け足した。


「君の家の離れに小さい庵があるだろう? その庵の庭の門はここの庭につながっている」

「庵……って、あの物置? 庭に門……ああ、確かにあったわね」


 もともと物置小屋だったのを、祖父が『庵がほしい』と言い出して水回りを整え、人が住めるようにいじった場所だ。住める、と言っても最低限の設備だし、母屋から遠いので祖父の死後は完全に放置されている。

 片手で足りるくらいの回数しか行ったことがないのでうろ覚えだが、何故か裏山に向けて門柱だけが設置されているので印象に残っていた。


「じゃあいちいち迷子を集めるために山に分け入らなくてもいいのね」

「ああ。基本的に迷子は君のところに集まってくる。大抵のやつは勝手に話して満足して帰っていくが、帰る場所がわからなかったり帰る体力のないものもいる。そういうものは迷い家に一時的に保護するんだ。君の役割は話を聞くことと、必要に応じて迷子を迷い家へ案内する窓口だ」

「……まあやってみるけど、手に負えない問題が起きたらどうしたらいいの? 物の怪相手でしょ?」

「その時は私を呼びなさい。よほど遠い場所でなければ名前を呼べば分かる」


 白露は頼りになるとは言い難い見た目の優男だが、主様と呼ばれているくらいだからきっと力のある物の怪なのだろう。

 極力他人に頼らず、自力で生きてきた不由は人を頼るのが恐ろしく下手なので、本当に困っても呼べるかどうか怪しいが、一応心に留めておく。


「おい、孫」

「何よ狸鍋」

「この……ッ……お前は主様がここに連れて来てから三日間眠っていた」

「みっっ……か……!?」

「人間の世界では数日姿を消すと大騒ぎになると尚行が言っていた。せいぜい覚悟して家に戻るんだな」


 三日も姿を消していたらそれは大騒ぎだろう。

 あの取り巻き三人が正直に話していれば事故ということになっているだろうが、おそらく望みは薄い。向こうの方が人数が多いし、何よりも品行方正な美雪の大事な取り巻きお友達だ。

 事故、失踪、誘拐、神隠し……どれで処理されているかにもよるが、『物の怪に助けられました』などという真実を話せない以上、周りから奇異の目で見られるのは避けられないだろう。傷物扱いされ、両親は貰い手がなくなると怒るかもしれない。


 真っ青になって頭を抱える不由に「人間の世界も大変だな……」と、佑が憐れむような目を向けた。

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