第5話 人の世界

 やはり取り巻きたち美雪のお友達は口をつぐんでいた。

 両親は夜遊びを疑って終業式の日と翌日は通報しなかったのだが、さすがに次の日には警察に届け出たらしい。

 そこからすぐに事件・事故両面で聞き込みと捜索が行われたそうだ。

 不由が戻ったのは翌日からは山狩りを始める……というところだった。


 自宅の裏山からひょっこりと戻ってきた不由ふゆは、


 ――帰宅途中の山道で足を滑らせて気を失い、目覚めてからしばらく山中をさまよっていた。体は痛むが大きな怪我はしていない。服は破れてしまったので、山中の作業小屋で見つけた浴衣を拝借した。


 ……という説明だけして、体中が痛くてだるい、と部屋に引きこもった。

 いくらなんでも怪我がなさすぎる姿を取り巻きに見られたくなかったからだ。


 戻ったときこそ母は泣いて喜び、父も安心した顔をしていたが、やはり年頃の娘が数日行方知れずで、しかも服まで変わっているとなったら良からぬ想像をしたのだろう。落ち着くと腫れ物のような扱いを受けることになった。

 表向きには事故ということで処理されたが、細々とはいえ元から怪しい噂のある今井家の娘である。神隠しだの、天狗に攫われただのという噂が村中でまことしやかに囁かれた。


 両親は不由を喜一きいちの嫁に、という希望を抱いていたようで、ささやかな玉の輿の夢が潰えたことへの落胆を隠しもしなかった。

 九歳の弟の春孝はるたかは正確な理由こそ理解していなかったものの、姉が何か『不浄のもの』であると感じたようで、冷たい目を向けてくるようになった。



 しかし、不由はといえば。


「逆に清々したわ」

「お前は少し図太すぎるぞ。人間の女は儚いものではないのか」

「バカねたすく。儚く見える女ほど図太いのよ」


 腫れ物扱いされるのを逆手に取って、不由は祖父の庵を掃除してそちらで暮らすことにしたのだ。

 そして迷い家でお茶を飲み、本を読みながら狸を構うのが日課になっていた。


「……随分仲が良くなったな」

主様ぬしさま!」


 ふらり、とやって来た白露はくろの姿に佑が目を輝かせる。

 白露は佑が文句を言いつつこまごまと不由の世話を焼くのが面白くないようで、少し不満げな顔をしていた。

 佑は白露の子分のようなものらしい。不由に取られたような気持ちなのだろう。

 不由は別に狸がいてもいなくても良いのだが……白露の拗ねたような態度が面白いので、わざとふふん、と笑ってみせる。


「あら、羨ましいの?」

「そうだな」

「お前! 主様への口の聞き方に気をつけろと言っているだろう!!」


 そうして佑がキーキーと怒るのも日課の一部だ。



 迷い家の管理人業務は特に滞りなくこなせた。

 庵の縁側に腰掛け、離れたところからこちらを伺っている物の怪においでおいでと手招きしてやる。

 すると彼らはおずおずと近づいてきて、ポツポツととりとめのない話を語りだす。不由が相槌を打ちつつ聞いてやると、満足したように去っていく。

 場合によっては庭の門から迷い家に入れるように案内してやる。


 始めは不由を遠巻きに見ていた物の怪たちも、そんなことを繰り返しているうちに噂が広がったらしく、わざわざ呼び寄せなくても自ら庵へやってくるようになった。

 やってくるのは道に迷った物の怪、そして人の魂。

 人の魂は、すでに亡くなっていることが多いが、時にまだ生きているものも訪れてきた。

 そういう場合は時間の勝負だ。

 本人から詳細な事情を聞いて鴨川さんに『迷子届け』を提出し、物の怪の情報網で魂の抜け出た本体を探してもらう。体が死んでしまう前に間に合えば息を吹き返すことができるのだ。


 そんな風に、不由は中学に通い、家の手伝いをし、空いた時間を迷い家の管理業務や読書に使った。

 祖父の遺した本は主に漢文に関するものだったが、特に孔子に傾倒していたということもあり、論語の本はクタクタに読み込まれていた。

 不由の名前の由来となった『行不由経こうふゆけい』は論語の第六編、雍也ようやの十四番目だった。


 曰わく、澹台滅明たんだいめつめいなる者有り。行くにこみちらず。公事こうじあらざれば、未だかつえんしつに至らざるなり。

 ――澹台滅明という者がいる。道を歩くとき近道をしない。今まで公の仕事以外で私の部屋へ来たことがない。


 近道などをせず進み、また上役に媚びたりしない。

 転じて『行不由経』とは、堂々と大道を歩むこと、公明正大であることを意味するそうだ。

 白露によればこれは祖父の座右の銘であったらしい。


尚行なおゆきは君を大切に思っていたよ。だが、自分と同じ力がきっと君の人生を苦しいものにするだろうと考えていた。それでも堂々と生きてほしいと願ってつけたそうだ」

「誰も教えてくれなかったわ」

「あれは変わり者の上にものぐさだったからな。説明をしなかったんだろう」

「それにしたって、字面とか考えるべきだわ」

「変わり者でものぐさで、細かい気の利かないダメなやつだったんだ」

「……本当に友達だったの?」


 白露は優しげな風貌をしているが結構ズケズケと物を言う。

 人間とは考え方の尺度が違うというのもあるのだろうが、割と頻繁に迷い家に顔を出してお茶を飲んでいる姿を見ていると、人外のものだということを忘れそうになる。

 ただ、彼が祖父を大切な友人だと思っていた、ということは言葉の端々に感じられた。


 この場所で白露や佑と話す時間が不由は好きだった。

 日本中から迷い込む物の怪の話を聞くのも好きだった。

 人でありながら、人の世界にはやはりうまく馴染めなかったけれど、こういう生き方も悪くないと思えた。



 不由は中学を卒業後、高校進学こそ叶わなかったものの、隣町の会社の事務職に就くことができた。

 家の手伝いをさせたかった両親は始めこそ反対していたが、不由は「嫁ぎ先の見つからないような娘がずっと家にいるより外に出ていたほうが良いでしょう」と説き伏せ、最終的には納得してくれた。


 ――ゆくゆくは家を出て1人で暮らそう。

 迷い家の入り口は鴨川さんに申請すれば新しく作ってもらえるらしい。

 勉強して、もっと上を目指すことだってできるかもしれない。


 そう、思ってたのに。


「結婚?」

「そう。とてもいいお話よ」


 寝耳に水の話が飛び込んできたのは不由が二十歳の時だった。


「仕事で来ていたあなたを見初めたんですって。結婚したら仕事もしなくていいのよ。あなた農家は嫌なんでしょ?」


 相手は取引先の社長の息子だった。何度か言葉を交わしたことがある。

 業務中だというのに、関係のない話ばかり、不由のことを根掘り葉掘り聞いてこようとしてきたのでよく覚えている。


「次期社長夫人だぞ。村の外なら昔の話も関係ないし、願ってもない話だ」


 当然両親を始めとした親族は大喜びで、不由の意思など関係なくどんどんと話が進んでいった。

 取引先のその会社は観光開発を進めているそうだ。

 我が村の村長の肝煎りで、裏の山を切り開いて、大きなゴルフ場を造るのだ、と。


 その計画で埋め立てられる川は、白露の川だった。

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