まやかし

 通知音で目が覚める。

 時刻を見れば、夜明けよりももっと前。夜中と朝の、ちょうど真ん中。

 

 夜中になる通知音といえば、Nアラートだ。開戦当初は何度もそれで起こされた。だけど、鳴ったのはあのけたたましい音ではなくて、普通の通知音。普通の優しい通知音。

 

 夜中の通知はいくつかを除いてオフにしてある。鳴るのは大事な人からのものだけ。だから普段と同じ音でもその意味は違う。普通の優しい通知音なんだ。

 

 スマホを手にとって確認する。メイからのメッセージだった。

 

「夜中にごめん」

「もし寝てたの起こしちゃったら、無視して」

 

 自分から送っておいて、その言い訳はないよと心の中でツッコミを入れる。私と繋がりたいけれど、ほんの少しの本人だけの不安がそこにある。そんなことありえないとわかっていても、寂しいときにはそういう不安が拭いきれなくなる、そんな気持ちが痛いほど理解できた。

 

 だから、余計な一言は無視する。それを思わず打ってしまった心理を思うと、触れずに無視するのが優しさなんだと思う。


 返事は短く淡々と。

「どうしたの」

 送信。

 

 しばらくの間。入力中の表示が、メイが返事を考えているのを示している。

 

「ほんとごめん。やっぱりなんて書けばいいかわからないや。気にしないで」

 

 上手く表現できないのに、連絡を取りたいと思ったんだ。気にしないなんて、できるわけがなかった。

 

 会って話したいと思った。私に連絡をくれたのが嬉しかったし、複雑な気持ちのメイと同じ時間を過ごしたいという邪な気持ちも、たぶんあった。

 

「星でも見に行こうか。学校来れる?」

「起こしちゃってほんとごめん。気にしなくていいから」

「私が見に行きたいんだよ。一緒に来てよ」

「学校なんて入れるの?」

「私だったら入れるよ。一緒に屋上で星を見よう」

「でも」

「いいから来てよ。こんな時間に起こしたお詫び」

「うん、すぐ行く」

 

 メッセージは不思議だ。言葉だけのやり取りなのに、表情以上に感情が見える。安堵するメイの心が見える。表情で見えるのは顔だけだけど、メッセージからは心が見える。

 

 一旦下着になって、明日のために畳んであった制服を着る。ブラウスにブレザー、スラックス。制服とは所属を表すための服だ。私は「敵国人」だと言われても、学校の生徒であることは変わらない。そのことに妙な安心を感じる。

 自分は学校の一員なのだと思える。


 それは、籍みたいな書類上の話ではなくて、実感の問題だ。私はその集団の一員なのだというアイデンティティの問題だ。だから私が国籍を持っていても、この国を「祖国」と呼ぶことにはまだ自信がない。もちろん「敵国」を祖国だと思ったこともない。


 この国を祖国だと迷いなく言えるようになりたいけれど、どうすればその実感を得られるのかわからなかった。



 

 学校の近くまで来ると、校門の前にメイがいるのが見える。メイも制服だった。

 

「ごめん、待った?」

 

 言ってから、デートにわざと少し遅れてきた男子みたいだなと思った。実際のところ、これはデートみたいなものだとも思えてきて、少しドキドキする。

 

「ううん。それよりこっちこそほんとにごめんね」

「いいんだよ。私が星を見たかったんだ」

「ごめん。それに、ほんとに入れるの?」

「入れるよ。ついてきて」

 

 校門に鍵がかかっていても、隣のフェンスなら簡単に登れる。玄関はしまっているけど、窓の施錠は不十分。屋上が出入り自由だってことは何故か意外と知られていない。昼休みでも一人で独占できるから、ありがたいのだけど。

 

 無機質な金属の扉を開けて、屋上に出る。不気味で暗い夜の学校から、夜空と夜景を一望できる場所へ。景色が変わって気分も解放される。ここに来ると 少し楽になった気がする。最近よく聞く「解放」ではない、もっと個人的な「解放」をもたらしてくれる瞬間。

 

「わあ」

 

 思わずメイが口に出す。その感動が伝わってくる。喜んでくれてよかったなと嬉しくなった。ますますデートのようだった。


 夜の風景を見渡す。 

 この街は絶えず燃えている。もちろん火事ではなくて、こんな夜中でも、いくつかの建物からは明かりが漏れているという意味で。


 それは、コンビニだったり、夜の街だったり、眠れない誰かの家だったり。みんなの命が生きるために燃えていることを示す光。

 

 それは、人間活動の証、人が生きているということを示しているけれども、悩みや苦しみも内包している。みんなの心にある炎が、ここからは見渡せる。

 

 学校は真っ暗だ。きっと、飛行機から見下ろしても暗く見えるだろう。その平穏の闇に、私たち二人は溶け込んで、つかの間だけは心の炎も消えてくれるんだ。

 

「いい場所でしょ?」

 

 言葉に出して、問いかける。一人で来るときにはできなかったこと。この空間を共有すること。

 

「うん。なんていうか、すごいね」

「空、見てみて」


 そう言って、私も空を見上げる。そこには星空がある。街の明かりがあるから満天の星空とはいかないけれど、それでも確かに沢山の星があるのがわかる。


 とても遠い場所、人間がたどり着いたことのない平和な世界からやってくる光。そこにはもちろん争いなんてない。死んだ人はお星さまになるっていうけれど、この戦争で亡くなった人たちも平和な場所に行けたんだって思うと、少し救われた気持ちになる。


「あの星たちには、私たちの世界なんてちっぽけで関係ないんだよね」


 メイがそんな事を言う。私と同じことを、考えたのかもしれない。誰にだってそう思わせるだけの壮大さが、この星空から伝わってくる。


「死んだらお星さまになるっていうでしょ? 亡くなった人も、この宇宙そらの何処かで、平穏に暮らしてるのかも」


 それはもちろん生きている私たちの自己満足でしかないのだけれど、願うくらいはさせてくれてもいいじゃないか。


「そうだね。そうだといいな。ほんとうに、そうだとっ、いいな……」


 メイは詰まった返事をする。私は星空を見続ける。メイの表情は見えない。見ない。私が知らないだけで、身近な人を失ったのかもしれない。そうかもしれなくても、メイが言わない限り、私は知らないフリをし続ける。

 

 それから私たちは、いろいろな話をした。といっても大半は他愛のない思い出話。夜の時間は長く感じられるけど、学校にいたのは結局一時間くらいだった。


 結局メイは最後まで肝心なところを話題にしなかったし、私もあえてそれを聞き出そうとは思わなかった。

 

 あの空間で共有するのは過去の楽しい思い出で、今のこの世の中の生きづらさなんて不要なものでしかない。


 だって、その場には存在しないものなのだから。

 たとえ現実に戻ればそれが待っているとしても、だからこそ忘れられる時間は得難く価値のあるものだ。

 

 日常の生活には、うっすらと戦争の空気が混じっている。普通の日常を送れているけど、それでもテレビだとかSNSだとか、とにかく戦争から完全に逃れることはできない。お父さんが自衛隊員のメイにとっては、もっと顕著だろう。

 

 だから私たちは、ここに来てつかの間の平時を味わった。その瞬間だけは、戦時ではなく完全なる平時だった。楽しかったこと、喧嘩したこと。今となってはすべてが愛おしい思い出だった。

 

 日常は続いているのに、みんな変わってしまった。

 

 私たちはもう、二度とあのころには戻れないのかもしれない。

 

 ▼


 メイのお父さんが戦死した。

 皆勤賞のメイが朝いなかったから、嫌な予感はした。昨日の夜のこともあった。

 

 先生が沈痛な面持ちで、静かにそれを告げて、クラスのみんなで黙祷を捧げた。

 

 それで、終わり。


 いつも通りに授業を受けて、休み時間には普通に友だちと笑って、そんな日常の風景に戻っていく。


 私ははっきりと、憤りを抱いていた。生徒――私の友だち――のお父さんが亡くなったのに、みんなその程度なんだって思った。


 みんなにとっては、普通の日常に戻れてしまう程度の小さなことでしかないんだって。


 私はその日常には戻れなかった。笑いあえる友だちは、今はこの学校にはいないのだし、また心から笑える日が来るのかもわからない。


 たとえば私がいなくなったとしても、そうなんだろうと思ってしまう。「敵国人」がいなくなったところで、誰も気にしないでしょうと。


 ここは私の居場所ではないのかもしれない。

 

 また一つ、日常が崩れる音がした。



  

 授業をサボって屋上に来ている。昨日二人で過ごした場所に。

 

 空を見上げている。いつも通りの平穏な空を。


 きっとそれは、平穏でも何でもないのだろう。ときどき見るミサイルのその下では、どこかの誰かが怪我をしたり、死んだりしているのだろう。

 

 いろんな日常が、少しずつ崩れていって、いつの日が非日常が日常となる。歴史をたどれば、百年近く前の祖国ではそんな日々を暮らしていたし、世界に目を向ければ今でもそんな場所はたくさんある。

 

 メイからの連絡はない。

 

 私も、メイになんて言えばいいのか、わからない。

 

 戦争が身近にない私が何を言ったところであまりに薄っぺらくて、どんな言葉をかけても、彼女の心を動かすことはないだろう。

 

 そろそろ進路を考えなきゃいけない時期だ。

 

 メイはどうするだろう。

 私はどうしたいだろう。


 祖国の国民になりたいと思った。心から、私は国民だと言えるようになりたいと。


 基地の方に視線を移す。そこは、自衛隊の基地だ。祖国と国民を守るために命をかけて戦っている人たちが、そこにいる。


 私たちの祖国は、戦争をしている。かけがえのないものを守るために。


 だから、変わらない日常なんて、まやかしだ。



  

 火を出しながら低空を飛んている戦闘機が見えた。あの基地にあるのは、F-3テンペストという名前の一度も撃ち落とされたことがない最新鋭戦闘機のはずだった。

 

 テンペストという名前と、燃えながら落ちていくその戦闘機の姿が、嵐に巻き込まれた難破船を連想させる。

 

 これは始まりだろうか。だとすれば、最後には祖国の島々の皆が解放される、そんな未来が訪れるだろうか。

 

 いつか世界が、こんな荒々しい魔術this rough magicを捨てられるときが来ればいい。

 

 この広い空のどこかから見えない妖精エアリアルが私を見ているような気がした。

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