第39話 笑顔の葉子
「あなたは明日からずっと洗い場で作業してもらいます」
「なんで俺が、あんな所で働かないといけないんだ!」
「あなたがいると、みんなの和を乱すからです。明日からはずっと葉子さんと一緒に作業してください」
「葉子って、あの気持ち悪い顔した女だろ? あんなのと一緒に仕事なんてできねえよ!」
「あなたの言う通り、確かに見た目は悪いけど、ああ見えて彼女面白いところもあるのよ。一緒に働いていると、それが分かるから」
「そんなの、分かりたくねえよ! とにかく俺は、あんなのと一緒に仕事するのはお断りだ!」
「そうですか。じゃあ、あなたには辞めてもらうしかありませんね」
「そんなことしたら、労働局に訴えてやるからな」
「お好きにどうぞ。聞くところによると、あなた今までいろんな派遣先で問題を起こしてるそうね。そんな人の言うことを、まともに聞いてくれるかしら?」
「ぐっ……仕方ない。じゃあ、とりあえず一週間だけ洗い場で働いてやるよ」
「そうですか。一週間も働けば葉子さんの良さが分かるから、最後までずっと一緒に作業したくなりますよ」
そう言うと、井上はホッとした顔で足早に去って行った。
──くそ。痛いところをつかれて、ついOKしてしまったが、あんな化け物女と一緒に働かないといけないとはな。こうなったらもう、やけ食いしてやる。
伊藤は大盛のごはんを貪るように食うと、係のおばさんに「おかわり」と言って、茶わんを差し出した。
「うちはおかわりはできないんだよ」
「なんで?」
「規則で決まってるから」
「そんな規則、今日で俺が変えてやる。早くおかわりをよこせ!」
伊藤の気迫に押されるように、女性は茶わんにごはんをよそい始めた。
「普通盛りでいいかい?」
「大盛に決まってんだろ!」
伊藤は大盛のごはんを素早く平らげると、更にもう一杯大盛のごはんをおかわりしていた。
翌日、伊藤は配置板を見るなり、ため息をついた。
──はあ。分かってはいたが、実際に見るとやはり気が滅入るな。
配置版の洗い場の部分には、山本葉子と伊藤の札が置かれていた。
嫌々ながらも洗い場に足を向けると、そこには幽霊顔の山本葉子が彼を出迎えるようにして立っていた。
「うわっ! 出たっ!」
「何よ、そのリアクションは! あんたまでレオみたいなこと言わないでよ!」
「いきなりあんたの顔を見たら、みんなこんなリアクションになるさ。それより、俺はここで何をすればいいんだ?」
「ここの作業は基本的に洗い物とゴミ出し、それとウエスの洗濯と一時間ごとの髪の毛チェックよ。髪の毛チェックは私がやるから、あんたは他のものを全部やってちょうだい」
「はあ? それだと、俺の割合が多いんじゃないか?」
「じゃあ、あんたが髪の毛チェックやる? 何十人もの髪の毛チェックをするのって、結構大変なんだからね」
「ちっ、分かったよ。じゃあ、洗い物もゴミもない今は何をすればいいんだ?」
「作業室と通路の点検よ。クイックルワイパーを使って、髪の毛が落ちていないか確かめるの」
「分かった。じゃあ、とりあえず通路からやるよ」
そう言うと、伊藤はクイックルワイパー片手に作業室から出て行き、通路を点検し始めた。
──あーあ。なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ。この中で一番使えるのは、俺だっていうのに……こうなったらもう、あの化け物女をからかって憂さを晴らそう。
やがて点検を終えると、伊藤は洗い場に戻るなり葉子に向かって「いつも思ってたんだが、なんであんたはいつもそんな仏頂面してるんだ? 醜い顔が一層醜くなるだけだから、やめた方がいいぞ」と、悪態をついた。
「私は、自分の顔に合ったように振る舞ってるだけよ。私がいつも笑顔だと、逆に気味悪いでしょ?」
「そんなことないよ。俺はあんたの笑顔を見てみたいけどな」
「それ、本気で言ってるの?」
「もちろん本気だ」
「じゃあ、一応考えとくわ。それより、この前見たんだけど、あんた髪の毛のセルフチェックをする際、決められた一分より短い時間でやってたでしょ? あれルール違反だから、やめといた方がいいよ」
「あんなのを一分間もちんたらやってられるかってんだよ。三十秒もあれば十分だろ」
「それはそうだけど、班長や係長に見られると、注意されるよ」
「班長や係長が近くにいる時はちゃんと一分やってるさ。いわば、臨機応変ってやつだな」
「それと、帰る前は用紙に終業時刻と自分の名前を書かないといけないのに、あんたいつも書いてないでしょ」
「そんなの、いちいち書いてられるかってんだよ。というか、あんた俺のことよく見てるな」
「……たまたま目に入っただけで、別にあんたのことを見てたわけじゃないから勘違いしないで」
そう言うと、葉子は逃げるように洗い場から出て行った。
──あの女、なんで逃げたんだ? というか、勘違いってなんだよ。勘違いしてるのはお前の方だろ。
突然逃げ出した葉子に、伊藤は何とも言えない気持ち悪さを感じていた。
「ああ、こんな辛気臭い所で働くのはもうごめんだ。今日限りで俺はここを辞めるぞ」
洗い場で働き始めてから一週間も経つと、伊藤の我慢は限界に達していた。
「その前に、ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど」
意味ありげな顔で言う葉子に、伊藤が不可解な表情をしていると、「あんたこの前、笑顔の私を見たいって言ったでしょ? 私あれからずっと鏡の前で笑顔の練習してたの。今からちょっと見てくれない?」と言いながら、葉子はいきなりマスクを外し、伊藤に向かって思い切り笑って見せた。
そしたら……
「……なんだ。思ったより、イケてるじゃないか」
「本当に! それって、可愛いってことだよね?」
「お前、調子に乗ってんじゃねえよ! 醜い顔が少しマシになっただけで、お前が醜いことに変わりはねえんだよ」
「あんた、昨日までは私のこと、あんたって呼んでたのに、お前に変わったってことは、私に対して親しみを感じ始めてるってことだよね?」
「どこまでもポジティブな奴だな。もう面倒くさいから、そういうことにしといてやるよ」
「じゃあ、今日で辞めるっていうのは?」
「それも取り消しだ。今から新しい仕事を探すのも面倒だからな。それより、お前いつまでマスク外してるんだ?」
「あんたに少しでも長くこの顔を見せたいと思ってさ」
「気持ち悪っ! これ以上見てるとゲロ吐きそうだから、早くマスクをしろよ」
「本当はもっと見てたいくせに強がっちゃって。あんたって、意外と照れ屋さんなんだね」
そう言って笑う葉子を、伊藤はまんざらでもなさそうな顔で見つめていた。
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