第22話 『はやっしー』再び参上!

「だから、生地の温度はこれでいいんだよ! 何度言えば分かるんだ!」


「気温の変化とともに、生地の温度を細目に変えろと言ったのは、田中さんじゃないですか!」


「それは時と場合によるんだよ! この生地は、そんなに温度にこだわる必要はないんだ!」


「その違いが何なのか、僕にはわかりません!」


 仕込み室では、いつものように先輩社員の田中と後輩社員の山本が言い合っている。

 その中和剤としての役目を担ってるのが、派遣社員の松岡だ。


「まあ、まあ。二人の意見はどちらも間違ってないので、ここはひとつ落ち着いて討論しませんか?」


「今、仕込みしてる最中なのに、討論なんてできるわけないでしょ!」


「そうですよ。時と場合を考えてください!」


「……失礼しました」


 ここ松岡の行動は一見、何の役割も果たしていないように見えるが、この後、田中と山本はすぐに言い合いをやめ、仕込みに没頭した。





 やがて昼休みになると、食堂で昼食をとっていた松岡にレオが声を掛けた。


「松岡さん、相席してもいいですか?」


「ああ、いいですよ」


「あっ、松岡さんは、サバ定食にしたんですね。私は唐揚げ定食にしました。それにしても、ここの日替わり定食はこの二つが出る頻度が多いですよね?」


「まあ、それは仕方ないですよ。今時こんな安価で定食を提供する食堂なんて、どこにもありませんから」


 この工場は、定食やカレー、麺類等をすべて三百円以内で提供していた。


「ところで、この前の飲み会は面白かったですね。特に、あの『マツケンサンバ』の替え歌は最高でした」


「でしょ? 自分では面白いと思って歌ったんですけど、アンニカちゃんを始め、ほとんどの人には不評でしたね」


「まあ、女性には、あの面白さはなかなか理解できないかもしれませんね。ところで、他にも替え歌のレパートリーはあるんですか?」


「まあ何個かありますけど、それを披露する機会がなかなかなくて……」


「この前、本人から聞いたんですけど、アンニカちゃん来月で二十歳になるそうだから、その時に飲みに誘って、その流れでカラオケに行けばいいんじゃないですか?」


「なるほど! それ、なかなかいい作戦ですね。アンニカちゃんが二十歳になったら、すぐに実行します。ああ、早く来月にならないかな」


「そうやって楽しみができると、人生にも張りができていいですよね。それより、僕になんか話があったんじゃないですか?」


「はい。実はそうなんです。でも、なんで分かったんですか?」


「いえ、別に理由はないですけど」


「前から思ってたんですけど、仕込み室にいる社員の二人って、相当仲が悪いですよね? 松岡さん、あんな環境で仕事して、辛くないんですか?」


「彼らは確かに、表面上はあまり仲が良いとは言えませんけど、心の奥ではお互いのことを認め合ってるんですよ」


「なんで、そんなことが分かるんですか?」


「あの二人って結構単純だから、考えてることが手に取るように分かるんですよね」


「なるほど。じゃあ、あの二人は、心の底からお互いを嫌ってるわけではないんですね」


「はい。もし、そうだったら、井上さんもさすがに二人を一緒に仕事させないだろうし」


「それもそうですね。ところで、いつも仕込み室で作業してた林さんを最近見ないんですけど、辞めたんですか?」


「さあ? それについては、僕もよく分からないんですよ」


「まあ、あの人、還暦も過ぎたって言ってたし、この仕事がきつくなったのかもしれませんね」


「多分そうでしょ。まあ僕は、あの人の東京弁が苦手だったから、このままいなくなった方がいいんですけどね」


「松岡さん、大人しそうな顔して、結構きついこと言いますね」


「ええ。それにあの人、口ばかりで、ろくに仕事しなかったたから、このまま戻ってこなくても、そんなに困らないんですよ」


「松岡さんにそんな風に思われてたなんて、林さんがなんか可哀想に思えてきました」


「僕だけじゃなくて、仕込み室で働いている者は皆そう思ってますよ」


 嫌われ者の林は、果たして再び現れることはあるのだろうか。





 翌日、仕込み室で田中と山本がいつものように言い合いを始めると、松岡は心の中で(また始まったか)と思うだけで気にも留めなかった。

 しかし、どんどんエスカレートしていく状況に、松岡はさすがに危機感を覚え止めに入ったが、彼らの言い合いは一向に終わる気配を見せなかった。


──まずいな。今回は二人とも本気のようだ。このままだと、仕込みに遅れが出ちゃうな。


 危機的な状況に松岡が頭を抱えていると、ある人物が二人の間に割って入った。


「君たち、またケンカしてるやしか。そんなにケンカばかりしてると、二人とも将来、地獄に落ちるやっしー」


 この口調から分かる通り、現れたのは二週間ぶりに出勤した林だった。


「林さん、今までどうしてたんですか?」

「僕たち心配してたんですよ」


「ちょっと『はやっしー』について調べるために、東京まで行ってたんだよ」


「えっ、そんなもののために、わざわざ東京まで?」

「で、どうだったんですか?」


「成果は上々さ。『はやっしー』のパクり疑惑も無事晴れたからさ」


「えっ! 『はやっしー』は、パクりじゃなかったんですか?」

「もう少し、詳しく情報を聞かせてくださいよ」


「『はやっしー』は、ある地方都市のゆるキャラをパクったと言われてたけど、それは逆で、ゆるキャラの方が『はやっしー』をパクってたんだよ」


 よほど興味が湧いたのか、今までだんまりを決め込んでいた松岡まで「なんでそんなことが言えるんですか?」と参戦してきた。


「『はやっしー』が誕生したのが、ゆるキャラが現れる前だからさ」


「なるほど。でも、そんなことは前から分かってたはずなのに、なんで『はやっしー』の方がパクったと思われてたんですかね?」


「『はやっしー』は地味な存在だから、誕生した時期が曖昧だったんだよ。でも、今回調べた結果、『はやっしー』の方が先に誕生したのは間違いないんだ」


「そうですか。じゃあこれからは、堂々と『はやっしー』を名乗れますね」


 松岡に言われたことがよほど嬉しかったのか、林は満面の笑みで「そうやっしーよ! みんな、これからは俺のことを『はやっしー』と呼ぶやっしー! 江戸汁プシュー!」と、ほざいていた。









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