第16話

先生にそれを伝えたところでどうにもならないことはすでにわかっていた。



ここに自分の居場所はない。



すべてが暗く、闇の中に溶けていってしまいそうな毎日だった。



いっそ、自分自身が溶けてしまえたら楽なのにと何度も考えた。



けれど智子には死ぬ勇気がなかった。



『人殺し』



ずっと。



ずーっと昔から。



イジメられるよりも前からそう言われてきた智子は、死について考えて考えて考えすぎて、そしてなにもわからなくなってしまっていたから……。


☆☆☆


亮一は智子と同じ学校に通うサッカー部の選手だった。



幼い頃に見たJリーグの試合中継が忘れられず、飽きっぽい亮一なのにサッカーだけはずっと続けてきていた。



プロになるための壁は分厚く高く、そう簡単ではないことは理解している。



それでも目指したい場所があって、県内ではサッカーが強いことで有名なこの高校に入学したのだ。



親元を離れて寮で暮らすことや、先輩後輩の関係など気になることも多かったが、すべては自分の夢のためだった。



実際にこの高校のサッカー部に入部してから亮一はたしかな手応えを感じていた。



さすがに中学までのサッカーとは違う。



お遊びではなく本格的なスポーツとしてそれは成り立っていた。



それが楽しくて最初の一週間はまたたく間に過ぎていった。



寮生活とか、先輩後輩の関係とかを考える暇だってなかったくらいだ。



変化が出始めたのはサッカー部に入部してから一週間以上が経過したときのことだった。



1年生全員でグラウンドを整備して寮へ帰宅したとき、サッカー部以外の先輩たちがニヤついた笑みをこちらへ向けていたのだ。



その時は大して気にしなかったが、夕飯時になってその笑みの意味を知ることになった。



先に先輩たちが食べ終わった後席についた1年生たちだったが、そこに出されたのかどう考えても多すぎる量の白米だったのだ。



それを見て誰か大食いでもするのかと最初は笑っていた。



けれどサッカー部の先輩がそこに現れて『サッカー部の1年生で全部食え。絶対に残すな』と言い渡されて、これはそんな楽しいものではないのだと気がついた。



寮生の中でサッカー部員の1年生は5人。



それに対してご飯の量は10キロはあった。



それでも食べきることができていたのは、部活動をしていたからだと言える。



先輩からのそれが嫌がらせだと気がつくより先に、今度はサッカー部の1年生にはサラダのドレッシングが回って来なくなった。



先輩に『ドレッシングを貸してください』と言った強者もいたけれど、そいつは1日中寮内の掃除を押し付けられていた。



休日練習のときなどひどかった。



1人でも休めば連帯責任としてグラウンドを50周走らないといけない。



その間に1人でも倒れれば、更に5周追加だ。



誰も休めない。



誰も倒れられない状況が続いた。



更にたちの悪いのは、それを行っているのが顧問の先生だということだった。



先輩後輩の指導を影で操作していたのも、この顧問だったのだ。



どうして?



そんな疑問が浮かんでくる。



こんな、練習には全く関係のないようなことをさせらる覚えはない。



俺はサッカーがしたいんだ!



そう思っても、亮一は奥歯を噛み締めて黙り込んだ。



サッカーをしたいからこそ、ここから出ていくことができなかったのだ。



反論してサッカー部にいられなくなると亮一はこの高校にかよく目的を見失ってしまうことになる。



『先輩たちと一緒にいるときに友達と挨拶してんじゃねぇ!!』



練習が終わって片付けをしているとき、偶然友人が声をかけてきた。



それに反応した1年生がグラウンドを10周走らされる。



朝練が終わった後ボールを片付けていると、先輩たちが数人がかりで倉庫のドアを閉めた。



『いいか、絶対に授業には遅刻すんじゃねぇぞ』



閉じ込められた倉庫内でそう言われ、就業時間1分前に開放される。



後方から『走れ!!』と怒号が飛び、1年生は尻に火を付けられたようにダッシュで教室へ向かわないといけなかった。



サッカー部の練習を1日でも休めば、連帯責任。



大好きなサッカーをしているはずなのに、亮一はだんだん自分がなにをしているのかわからなくなってきていた。



体は毎日フラフラで、いつどこで先輩をすれ違うかわからないから、常に気をはっていないといけない。



そんな中で亮一は顧問の先生に呼び出されたことがあった。



倉庫内だったので、備品の整理とかボール磨きを言い渡されるのだと思っていた。



しかし、亮一が呼ばれたのは全く別の理由だった。



倉庫に入ってきた亮一を見て、顧問はマットの上から立ち上がった。



口元に微かに笑みを浮かべて近づいてくる。



少し嫌な予感がして後ずさりをしたけれど、逃げ出すことは許されない。



今までの経験から亮一は逃げるという選択肢を失っていたのだ。



亮一のすぐ目の前まで来たサッカー部顧問は顔を近づけてきた。



タバコ臭い息が亮一の顔にかかる。



『お前、あの家の子供らしいな』



それはとても小さくて、他の誰にも聞こえないような声だった。



けれどその言葉を聞いた瞬間、亮一の体は電流が打たれたように痛みが走った。



『すげぇなぁ。あの家の子供がここにいるなんてよ。だってお前の家……殺人一家じゃんよぉ?』



亮一の全身の血がカッと沸き立つのを感じた。



このクソジジィと今すぐ黙らせたいという衝動に駆られて、拳を強く握りしめる。



力を込めすぎて短い爪が手のひらに食い込んでいく。



『よく学校に来れてるよなぁ』



ハハハッ! と楽しげな声を上げて笑う顧問。



顧問の言ったことは決して触れてはいけないことだった。



誰にも知られてはいけないし、知っていても気軽にこうして話してはいけないタブーだった。



そのくらいのこと、誰でも知っていることだった。



それなのにこの顧問は面白がり、事あるごとに亮一を呼びつけてはその話をした。



そして亮一を支配下に置いたのだ。



あのことを知っているのなら抵抗はできない。



サッカー部にいられなくなる可能性だってある。



だから、我慢するしかなかったのだ。



それから今でもずっと、顧問からの嫌がらせが続いていても……。


☆☆☆


一生にも将来の夢があった。



体が大きいからボクシング選手だとか、プロレスラーだと勘違いされることが多いけれど、医者になりたかった。



一生は幼い頃遊園地のジェットコースターから転落し、大怪我を負ったことがあった。



ジェットコースターの点検不足で、そのことは後日大きく報道されることとなった。



誰もが悪夢のようだったと説明する中、一生は担当してくれた医師のことがずっと頭から離れなくなっていた。



テキパキと指示を出して的確な治療を施す。



その手際のよさに見とれてしまった。



手術が終わって入院期間になると、毎日病室に来てくれて笑顔で優しく声を掛けてくれた。



術後の回復が順調だと褒めてくれたときは本当に嬉しかった。



一生からすれば先生が神様のように助けてくれたおかげだったが、先生は一生の体力や生命力のおかげだと言ってくれた。



優しくてカッコよくて、自分もいつかこんな人になりたいと心から思った。



『お前が医者? 笑わせるな』



最初にそう言ったのは親戚のおじさんだった。



正月で親戚が集まってきているとき、つい嬉しくなって自分の夢を語ったときだ。



酒を飲んで赤い顔をしたおじさんがフンッと鼻で笑ったのを今でも覚えている。



『ちょっとやめてよお父さん』



イトコに当たるお姉ちゃんが慌てておじさんを止めて、隣の部屋へと移動していく。



一生はそれでも自分は医者になるのだと思って疑わなかった。



するすると傷口を縫合していく神様の手。



自分にもそれが持てるのだと思い、子供のころから人一倍に勉強をしてきた。



高校に入学してからも同じだ。



学年では常に1位を取り、文句なしの成績を収めていた。



けれど……。



『お前の夢って医者だっけ?』



昼休憩時間、中庭のベンチで1人医学書を読んでいた一生にクラスメートが声をかけてきた。



そいつは一生の親友と呼べる人間で、なんでも話をしてきた。



『あぁ』



一生は頷くだけで本からは視線を外さなかった。



『無理だよ』

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